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con tempo

質疑応答

大山
残り時間が少なくなってしまったのですが、ひとまずここで共同討議は終えて何か質疑応答に入りたいなと思いますので、今日話した内容でももちろん良いと思いますし、それ以外だったり個別に作家の方にお伺いしたいこととか何かあれば…

雨宮でも、こういう時って俺も全く質問って思い浮かばないんだけどね。

内海
あー(笑)。

質問者1
内海さんにで、屋上庭園のときに、カタログの時にこう、正常に並べている作品があって、けど実際の展示はもう少しすき間が空いたりしていて、そこで僕的にはピクセル状になってるのを期待していたのでちょっとギャップがあったんですけど、今ので、最初はひとつの空間のために作ると言われていたんですけど、そういう中での絵画の理想形、この作品の理想形というのはいつの時点であるのか、もしくは再現、再現というかもう一度使うときには違う楽しみがあるのか…

内海
もちろん違う楽しみはあります。作品の最良の状態は一点ではないですよね。作品のあり方は、その状況によって変わっていく、ということですよね。でもそれを選択するのは自分なのだし、絵画のあり方だけじゃなくてその絵画の内容もそうだと思うんですよ。抽象的な絵画であろうがどんな絵画であろうが完成というのはある一点にあるわけではないと思います。石膏デッサンであろうが人物像であろうがそうだと思うんですけど、その一点ではないどこを選ぶかというのを、自分で選択していくことが制作だと思います。だから(三千世界の場合)最初の空間では狭いじょうきょう空間のところでたくさん作品がある状況を選択したけど次の空間では広く余裕をもった展示も出来る。だからそのたびに図面を引いて造る、と言うことです。別の壁面になったときに当然設置面の長さが違うので、例えば50列あったら1センチずれたら最終的に50センチ弱ずれてしまうことになるので、そのためにミリ単位で考えてベストを探るということになりますね。

雨宮
俺もよく聞かれるんだけど、自分が死んだ後の作品の設置はどうするの?

内海
死んだ後?死んだ後…は、委ねる、しかないでしょ。

雨宮
会場の規格だったり「箱」の方を規定した指示を出して…

内海
いや、それがもし可能であれば、箱を指定するってこともあるけど、

雨宮
「UCHIUMI-ROOM」みたいのができれば楽だね。

内海
そうすればめちゃくちゃ凄いけど、そこまでを考えているというよりは、フォーマットとして例えば作品の間隔を20センチにするとか15センチにするって打ち出すことも可能だよね。でも僕が今できる範囲ではその空間にぴったりに対峙することを前提にやってる…。だから、選択肢はあるよねいろいろ。ゴンザレス・トレスの、例えば飴のサイズとかだって、絶対決まってるかどうか知らないけれど、でも本人が生きてれば、空間によってギリギリまで持ってくなり狭く持ってくなりっていう自由度はあると思うけど、だから自分の絵画作品だって、どういう空間にどのように置くかという自由度はある、あったうえで、でも作家がいる以上、もしくは自分が制作・展示に関われる以上、それにはできたら関わりたい。できないんだったら、それは美しく見えるようなフォーマットのどこかに落とし込んでほしい、という感じかな。

雨宮
フェリックス・ゴンザレス・トレスのはミニマルだから、ごくごく少ない要素のなかの「指示」なわけで、作品再現において、もともとの「指示」自体が数少ないゆえ、その「指示」が有効じゃない。でも、内海くんのインスタレーションとしてみせている作品って、実はそういうミニマルなシステマティックな「指示」とかそういった類のものじゃなくて、結構「感覚的」なものだよね。

内海
そうだね。

雨宮
だからそういう意味では「再現性」は割と無いほうだよね。

内海
うーん。

雨宮
いや、何かが悪いとか言ってんじゃなくて「システマティックに並べてる様に見えてそうでもない」って事は、そこに本質的な何かが潜んでたりするのかな、と思って。

内海
結構でかいフォーマットとしてあって、例えばその小さい作品は「三千世界」という作品ですけど、そのタイトルは「小さい作品がたくさん集まったもの」の状況をいったものです。あの一点一点は「色彩の下」というタイトルなんですけど、例えば僕が一人でいるときは、内海という個人名だけど、引いてみると日本人、アジア人、みたいに表現が変わるような感じで、状況タイトルなんですよね。絵画のあり方の部分は、もし僕だけが考えるんじゃなく誰かが考えたときにより美しいんだったらそれは別に採用してもかまわないと思っているくらいの恣意性はあるかなと思っています。

雨宮
その話もっとしても良かったね。その、階層がいろいろあるっていうのもおもしろいし…、しかし内海くんから「美しい」って聞くと頭がピタッと止まるのは何でだろう(笑)。

内海
うーん。(何でかね…)

大山
どこまでが内海さんにとって制作なのかっていう問題に…

内海
どこまでが制作…?

大山
もちろん絵を描くことはそうですし、

内海
展示することも制作か?と?

大山
そうなのかどうか。

内海
制作です。でも作品は自分の手を離れていくものでしょ。ある程度。例えば展示の際にネジ一本まで僕が打ちつくさなきゃならない、というのは無理があるし、制作とか展示とかは自分がやれればいいけれど、でも、作業としてバラしていけるものでもあると思うんですよ。例えば僕は画面上のことは今まで人にまかせたことはないけれど、ある部分任せられるように工程を分割することも可能だと思う。絵の認識の仕方だって空間によっては変わってくだろうし、そこには自由度があるという。

大山
ただ中には作品を全部発注してコンセプトだけ自分で作るっていう方とか、あるいは絵画だったらアシスタントをたくさん入れて、って人ももちろんいるって言う意味ではいろんなプロセスがあると思うんですけど、意識としてどこまでが自分の作品なのか、というのもまた違うレベルの話かなと思うのですが。

内海
例えばプロセスのところも、一番最初のプロットのようなものを作るところまではやっぱり自分でやらないといけないと思うんですよ。それは展示に関してでもそうだと思うんです。いきなり発注になるんじゃなくて、やっぱり作家はその作品が出来上がり観られるまでの経過を辿る必要はあるんだと思います。だから、僕自身今はその経過を辿る時期だと思うし、辿った上で工程を分割して、後天的には委ねられるものは委ねて良いんじゃないかと思うんですけどね。そして、その分割した工程のどこかで、例えば展示任せてもいいよって言う可能性もあるし、そのまま保持する可能性もあるし。

大山
それはあくまで、展示までが自分の制作の範疇で、それをプロセスとしては部分的に人に任せるって言う意味ですね。

内海
とか制作も人に任せるとか・・今のところはないけれど、でもあり得るって言うことだよね。自分の制作に対して自分が絶対的な感覚を持っているとも思えないし。

大山
他に何か質問のある方いますか?

質問者2
池田さんに聞いてみたいのですが、蝶とか金魚を選んでそれを絵の形にして発表していると思うんですけど、それは池田さんにとってどういう位置づけというか、どういうことを持ち込もうとしているのでしょうか。無数にあるモティーフのなかで金魚とか蝶をなぜ選ぶのか、池田さんとモティーフということを考えていて。

池田
僕にとっては「美」というのはかなり難問なんですね。ある種のねじれをもちながらもあえて「美」というものの意味にこだわっているところがあって。最初にこのシリーズを始めるきっかけになったのが、アメリカから帰ってきた時に京都でたまたま個展があって、外から帰ってきたというタイミングのせいかと思いますが、せっかくやるから京都的なことをやりたいなと非常にベタなことを考えまして。美学の概念で、美と崇高っていうのがあるんですよね。例えば、崇高っていうのは自分の認識範囲を超えたような大きな自然なんかを前にした経験が崇高といわれるわけですが…

質問者2
それは池田さんのなかの実感としてそういう崇高さというのがあるんですか?

池田
いえ、むしろ反対で、そういった崇高さではない美的なものの可能性を考えたいということです。さきほど標本という話がありましたが、18世紀には西洋で博物学が流行していてロココ絵画なんかの感覚と響いていたり、ほぼ同時期に日本でもそういった美的なるものが、例えば伊藤若冲の絵画に現れていたりする。そういった美的な感覚というのは京都的な伝統にすごく強くて、そういうものを取り込んでいこうという意図がありました。

なぜ、その段階で美的なもの、という発想が出てきたのかといえば、おそらくはアメリカでの経験が大きいと思います。ともかく現代美術は、なにか水で薄められた様なコンセプチュアルなものであったり、中途半端にコンテクチュアルだったりというような状況で、面白いものが何もない。正直、ニューヨークでここまでつまらないのであれば、僕は現代美術というフィールドでやっていく意味があるのかどうか、戸惑ったほどです。こういった傾向は、プレゼンテーションや文脈付けを重視する欧米の美術教育の弊害だと思いますが、そういった世界的なモードに対して、欧米人からするとクラフティック(工芸的)とも見えかねない様な、造形性や美への感覚というものを突きつけることはできないだろうか、と思ったという経緯があります。

とはいえ僕は、欧米型の現代美術に強い影響も受けてきたわけで、やはりそういう美的なものを単純に好きといえるわけではないんですね。ロココ絵画や若沖の作品も、必ずしもストレートに「好き」といえるような対象ではないんだけれど、むしろそういった違和感があるものをあえて取り込んでみよう、という意図があったんですね。まあ普通にいえば金魚とか、蝶とか、そうとうキッチュな対象ですから。

雨宮
花鳥風月だね。

池田
そう。あえて取り入れつつ、違うものに変形していくための抵抗物として、あるいはハードルとしてモチーフを扱っている部分があります。

質問者2
それは場所が京都ではなかったら、もっと別な形になっていたということですか。

池田
どうなんでしょう。でも東京で展示をするとしたら、わざわざ若冲などについて考えようとしたかどうか微妙です。そういった巡り合わせというのはあるでしょう。とはいえ、実際にはアキバでそういった金魚のフィギュアを見つけてきたりだとか、そういうことはあるわけですが。

質問者2
そのモチーフの距離感というか、また違うところにあるんじゃないかなという気がしていて。デュシャンとかマイケル・フリードとかいうことは聞こえてくるけれど、池田さんが何を訴えてこの絵を作ることに打ち込んでいるのか、制作自体の言葉というのが少しピントがずれているというか。厳しいことを言っていますが。
それは否定しているのではなく、単に聞いてみたいということです。それが集積としては大きなアブストラクトなペインティングを作りたいというのがまず第一にあって…

池田
さっきも言いましたが、具象的なモチーフはクリアすべきハードルのように設定しています。そもそも僕は、作品が抽象か具象か、なんていうのはどうでもいいことだと思っていて、いかに見る者の感覚に作用するものを実現することができるか、基本的にはこれだけです。そして、その感覚をもたらすものとして、具象的なモチーフが抽象的な色面へと変容する、その変容のダイナミズムを取り込みたいと考えているところはあります。

質問者2
一見恣意的にニュートラルな素材として見ているようでいて、実際に意外と素朴に見たときに、見る人というのは作家とモチーフの接点というのを見るんじゃないかなっていう、そこに池田さんが想定している観客にそういう人がいないのかもしれないですけど、もう少し広い意味で、想定し得ないxとしての観客として考えたときにはそういうことも起こりえるんではないかなと思うんですけれど。

雨宮
モティーフが人にどう映るかは知ることができないので、なんというか観る人に向かって「気にすんな」って言っちゃってさえ良いと思うんだけれど、モティーフとつきあうには、作っている方のモチベーションはかなり関係するよね。この「蝶」とか「金魚」とかが「自分の母ちゃんの型取り」だったら全然話しが違うじゃん。もっと何とかしないとって思う気がする。

質問者2
さっき話しでもあったかと思うんですけれども、それはなんかすべてブラックボックスとしてある部分が絶対に有るべきだし、自分で潜っていっても到達できないところっていうのはあると思うから隠されていてもいいんですけれど、それをたぶんある種のフィクショナルなこととしてどこまでちらちらさせるのかというのが、制作の言語の気がして。

雨宮
まとめたなぁ。

池田
正直、そういう戦術的な話にはあまり関心をもてません。考えていることは率直に言語化すべきだと思います。いずれにせよ、作品にはそういった言語に回収されない何かが残ってしまうでしょうし、それが作品と呼ばれるための条件でしょう。そこになにかトリックを仕掛けてブラックボックスを示しても、僕には何も得るものがない。むしろ何かうまく解消されない違和感を、そういうものとして自覚することのほうが、今後に向けて考え続け、制作を持続させるために重要だと思います。内海さんに最初から聞いていたけれど、僕は「美」というものをそんなに率直に使えない。内海さんがそこを言い切ってしまうのはすごいなあと思うわけですし、それでいいのだと思います。ともあれ、僕の感覚とは違う、という意味での違和感は確かなものとして感じてもいるわけで、これは今後もこだわっていくことになると思っています。

内海
まあ排除できないと僕は思っているというか、池田君が金魚を選んだにしたって、雨宮君が選ぶ劇場の部品にしたって、それにいちいち美を感じているんじゃないかなと思います。それを排除してしまったら自分から離れてしまうし、自分の感覚の、選択する理由の、例えばそれが京都とかそういったフィルターをかけたとしても、結局美しさなんじゃないのって思ってしまうんだけれど。だから、デュシャンが泉を選んだのもあれに美しさを感じたんじゃないのかなと思う。だって選択しているはずだしね。

大山
美しさについてもっと細かく言うと、例えば形容詞で考えて、すごくおおざっぱに言うと「寒い感じ」とか「熱い感じ」とか、「ざらざらしている」「すべすべしている」とか、色々あるわけじゃないですか。そういう意味で、一言で美しさといってもいろんな美しさはあり得るわけなんですよね。それを細かく見ていったときにたぶん美術なりの言説で、あるいは絵画の歴史のなかで美しいと言われているものとか、今内海さんがすごい広い意味でいわれている美というのはそんなに一致しないというか、例えばさっき美と崇高という話がでたけれど…

内海
その“外”ではないんですよね。自分の位置からのものなので、それについて説得する為には多くの「美」を造るしかないんじゃないのですか。一筆から絵を描くしかないから、その一筆の選択から美しいということを造っていくしかないんですよ。例え誰かに大きなビジョンがあったとしても、それを実現させるためにはその体がそうするしかないから。体から離れたものを造ってゆくというのは無理というか、ダメなんじゃないかなと思っちゃうんですよね。

大山
たとえば今日ここにくる前に、岸田劉生の個展というのを新宿で見てきたんですけれど、自分の5歳くらいの娘の絵というのがたくさんあって、それを「でろり」とか言ってちょっと気持ち悪い感じで、ぬめっとした感じなんだけれども、そこになにか奥深しさを感じるというか、普通に考えたら綺麗というよりかは気持ち悪いし、必ずしも美という感じではないんだけれども質感としてなにか訴えかけるものはあるし、それを「でろり」とか言ってたりするんですけれども。そこも含めて、訴えかけているのはすべて美なんだというと内海さんのいうことはわかるんですけれども、ただそれをすべて美という言葉で括っちゃうと、ちょっと見えなくなることがあるというか…

内海
例えばそれは大山さんが鑑賞者として「でろり」に対して歩みよる気持ちがあってのものだと思うんですよ。でも制作者側は「でろり」に歩みよるんではなくて、やっぱりそれを美しいと思うというか、感じていると思うんですよね。そしてそれを作品として提示しているわけで、問うているわけですよ。その問いに対して他者は答えようとすれば答えられるし、それを汚いなと思った人に対しては美意識の選別が発生しちゃって…それを突き詰めていくと個人一人になってしまう。本当は一人にはなりきらないんだけれど、選別されてしまうからどんどん理解者は減っていってしまう。それを問うていくのが作家の役目で、岸田劉生が「でろり最高」とか思ったら、「でろり最高」という位置に投げている問いなんですよね。「でろり」というものをどこかに思いっきり投げていて、でも岸田劉生個人のことはいつまでも個人一人称のことなので。大山さんが考える僕(内海)個人の事と思って考えていることは大山さんにとっては他人のことになってしまうでしょ。だから僕の筆跡に対しては僕個人が僕のものだとして考えるしかない、ということなんですよ。こんな事をこういうところで話すのは突っぱねているようだけれど、やっぱりみんなのいる場としてのパレット上にぱっと言語として出して拾っていくことで、僕が扱えることが有るかも知れないし、また他の人が僕の言葉を扱えるかもしれないし、そのミキシングもして、でも結局選択するのは自分でというのを繰り返していくのが制作なのかなと思います。

雨宮
だから・・・内海くんの「美しい話」を掘っちゃダメなんだって(笑)。作家のブラックボックスは掘って聞いてみても意味がわからなくなる一方だと思う。そこは作品で観れば良いんじゃないかな。でも、そうは言ってもこの会の中でけっこう「美しい」は話に出たので最後に・・・このまま「美しい」話しを放っておくと少し気持ち悪いので、掘り進める角度をちょっと変えて聞いておこうかな。印象論で申し訳ないけど、「美しい」みたいなものって、掘り進んでいくと、「でろり」としがちじゃないかなって。そうじゃないとしても、劉生的な「でろり」は日本人に予めインストールされている事が多い気がする。でも内海くんの「美しい」は、ブラックボックスにしているわりには「カラッ」としているんじゃないかなと思う。あれだけ物量があって小さいストロークがちょんちょんとあって沢山の労働が作品に載っている。でも全然気持ち悪くならないというのは、なにに依るものなんだろうか。もし言葉にできるんなら、それを言葉にして聞けたらいいかなと思うんだけれど。

内海
俺は湿っぽくなりたくないんだよね。

雨宮
そこは具体的に言えるんだね(笑)。

内海
僕が美しいと思うものを詰めるときに、ある部分で僕という存在を排除しなきゃならないんだよね。僕という我をどんどんいれていくと、ウェットな感じになってしまうんですよ。これが線だとしたら、僕の身体性がすごく出てしまうけれど、タッチという細かい単位で重ねていく工程で、身体性が減ってきて、僕とは関係なく、美しいところにしたいというか。「僕とは関係なく美しいところ」では湿気がないほうがいいんだよね、僕にとっては。からっと美しいところに持っていきたいんだけれど、からっと美しいところはじゃあ感情無く塗ればいいというのではなくて、そこには僕にもわからない、濁りがありながらのからっと美しい、なんだよね。僕もよくわからないけれど、そういうことなんだよね。だから僕は自分の絵のなかすべてをカチッと造れば良いわけではなくて、大山くんも以前僕の絵を見たときに「ここがちょっとわからない、気になる」と言ったところがあって、それは僕もずっと気になっているタッチの話なんだけれど、それは大画面の緑のなかに、一筆茶色の上に黄色が載ったタッチの部分で、しかもすごく雑なんだよね。しかしそれがあることによって周りの精度がたかくなっていっているような感覚があるので、そういうノイズというか濁りがあった上での、からっと彩度が高く、僕の体からは離れられないんだけど、でも僕から離れていくという状況が僕の絵画に求めることなのかなという。

雨宮
おもしろい。観る人の身体性を導こうとする姿勢をとっている内海くんが、ある部分ではそういう身体性を抑制していくみたいな。その作る時の感じを内海くんの作品から読み取ることって普通に見ていてもわかりにくいから。

大山
ちょっと定時を過ぎたのでここで終わりにしたいかと思います。最後に一言づつ感想を頂ければと。

内海
いや、おもしろかったですよ。「美しく」終われたのかな。わからないけれど。普段考えていることをこういう特殊な状況でさらに考えることってあまりないし、僕はこういうイベントを自分からすることもないので呼んでいただいて、その場で反応して考えていくというのは勉強になりました。ありがとうございました。

雨宮
僕は最初に言っていたように、こういう場に来てわざわざ言うことなんてない人だと思っているし、「美術」や「言語」というだけで難しく感じてしまうくらい、こういう事は好きではないのですが、それでも自分の周りには美術や自分にまつわる言語は沢山ある。僕の周りにある言語が僕になんの関係があるのか?というのが一番の興味だし、実はそれ以上先のことなんてないのかもしれない。というくらい僕は美術の「言語」に対して期待をしていない。ただ、それらをある程度連環のなかで考えていけば少しは各自の制作の資源になるかもしれないし、そこで話されたことが、偶然未来への何かしらの資源になる可能性も無いとは言えない。なので、一応自分が携わる「美術犬」で一回目に池田くん呼んで、二回目内海くん呼んで、僕には義務としてここに来る必要があるなと思ったので来た。こうやって話した事も、また何かにつながっていったら、「わからない話」の「わかるはずのない形」をもう少し突き詰め「未来への資源」を産み出す可能性だけはあるかなと思います。こういうことを後でちゃんと回収することを池田君とか「美術の言語」を標榜する人ががんばっていけば良いんじゃないかと。

池田
これからより一層、精進していかなければと思わされました。今、雨宮さんが言ってくれましたが、こうして作家同士で話し合う場を設けるという実験的なセッションを、微妙にメンバーや場所を変えつつ繰り返していく中で、なにかが見えてくればいいなという意図でした。今回僕としては、いろいろと考えていくべき問題が明らかになりましたし、とても有意義な機会となったように思います。長時間ありがとうございました。


「雨宮庸介×内海聖史×池田剛介|制作の言語の制作」
企画:大山エンリコイサム、石塚つばさ
トランスクリプション:大山エンリコイサム、居原田遥、阿部浩之
編集:大山エンリコイサム

“Yosuke Amemiya, Satoshi Uchiumi, Kosuke Ikeda | Making of Language of Making"
Organized by Isamu Enrico Oyama, Tsubasa Ishitsuka
Transcription: Isamu Enrico Oyama
Edit: Isamu Enrico Oyama