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con tempo

大山
それでは、後半に入ります。突き詰めていくと三者三様ということだと思いますが、もっと実制作の話を聞きたいということで、池田さんどうでしょうか?

内海
池田君とか、翻訳するという言い方をしたら、絵画にしている時点で何かしら翻訳はされているけど、さらにその絵画のマチエール自体を結構珍しいものに翻訳しているじゃないですか。で、翻訳する先のものによって、かなり制約があるじゃないですか。例えば、日本語にすることで日本語の制約が生まれるような感じで。あの作品を、蝶とか樹脂で抜いたものを透明の額にいれるっていうあの形にする時の制約って、結構でかいと思うんですけど。それ、どう考えています?

池田
制約というのはどういう意味でしょう。

内海
制約。例えば、絵具ってかなり流動性のあるものだと思うけど、それを固定させてしまっていることとか。

池田
ちょっと内海さんが話していたストロークの問題と関係するところはあるかもしれません。筆致って絵画においてキャンバスという面と作者とが触れる一回的な瞬間性を持つものとして考えられがちだと思うんですよね。僕は一方でそういうのを、他のモチーフにおいて偽装する——例えば金魚とか蝶などもそういうものだと思うのですが、絵画的な筆致に近いような感じで金魚の尾ヒレを大きくしたりしています。しかし同時に、それらは型取りされて、複製されているものなので、結局それは一回的でも何でもない。僕にとってはアクリル絵具使うことと、樹脂を使って固めることとは、素材というレベルでは実は大差ないわけで、ただそこで絵具をパレットナイフや絵筆といった棒状のものにくっつけて、キャンバスなりパネルなりといった面状のものの表面に接着させる、といういわゆる絵画のプログラムそのものにアプローチしたいという方向性なのかな、という気はしています。

内海
でも、「いわゆる絵画」を見せる状況とは明らかに違っていて、あれはアクリルの枠が必須なんですよね?僕が今まで見た池田君の作品は全部アクリルの枠があるんですけど。それ込みになってくると、あれを含めて一つの絵画っていうことですよね。あれは、いわゆる絵画の中では額装というふうに考えがちだけど、あれ込みで基底材って考えるっていうことですよね。

池田
そうですね。

内海
そうすると、基底材のところに元々層があるというか。初めから空間を持っている基底材っていうのはあんまりないので、珍しいと思うんですけど。それって普通のキャンバスとどうトレースしているの?

池田
パネルって厚みがありますよね。この厚みも無かったものにされることが多いのだけれど、そういう無かったことにするっていうこと自体に違和感がある。むしろ、そういうフレームの条件をあえて設定するという方向性は確かにあります。内海さんはストロークとしての丸ということを言われたのだけれど、多分ふつうにストロークというのを考える時に、方向性があって筆っぽい感触をイメージすると思うんですが、内海さんの場合、やや特殊な方法で丸くしてますよね。

内海
特殊じゃないですよ。全部フリーハンドで縦のタッチで描いていっているので、近づくと筆跡が見えます。タッチの差は鑑賞者の眼が補正してゆくので全部同じような丸に見えるっていう感じですね、僕の場合。

池田
その時に、例えば一つの作品の中で、基本的には同じ大きさのドットを使ってますよね。

内海
やったこともあるんですけど、タッチのサイズは絵具という物質と自分の体に因っているんです。もっと筆が大きくなると絵具の粘度が強くて重いんですよ。描き続けると自分の身体がしんどい。あれより小さいタッチだとかなり長い、柔らかな筆にしないと筆の弾力が絵具に対して強くなっちゃうんですよ。僕は豚毛の筆を使っているんですけど、あの形が今のところやりやすい。僕の制作はかなり長期的に手を入れてゆくものなので、その際ストレスにならないようにっていう選択で、結果あのサイズになっているんです。

池田
そして、小さいドットと大きいドットが混在しているのがあまりないですよね。

内海
混在しているのはないですね。それが混ざると、僕にとってはいらないイリュージョンが発生してしまうので、今のところ混在しているものはないですね。ただ、池田君の制作って、アクリルの額込みだから基底材自体にもう空間が発生していますよね。で、これを物質にしたい、オブジェにしたいってことは、これ自体を立体として捉えているから、全てのものを立体物として空間の中で成立させようとしているっていうことなんですよね。

池田
というより、そもそも絵画も立体物だと考えてみたいわけです。

内海
それはそうなのですが、基底材の時点でイリュージョンと思われる距離を含んじゃってるのが、絵画の中でかなり珍しいと思うんですよね。絵画はその表面から、奥だったり手前だったりに、ある程度イリュージョンを設定してやっていくんだと思うんだけど——「絵画はこれである」っていう、ど真ん中があるわけじゃないから「絵画は」と言うのははばかられるのだけれど——ただ、いわゆる「絵画」という印象から考えると、絶対にアクリルのケースがあるいう縛りは、そこに距離がいきなりはいっていて不思議だなぁというか僕の中では珍しいし、その距離の手前にはアプローチしていないので、そこが僕の中でハテナなところでもあるんですよね。

池田
僕としては、そこは「距離」として考えているというよりは、ある種の「厚み」として考えているというか、具体的な、オブジェとしての厚みとして考えていて、この中に距離があるというふうには考えていない。透明なケースの中にイリュージョンが発生しているというのは、僕としてはあまり重要ではないというか。

内海
池田君にとって、作品の表面はアクリルの表面ではなくて、中にあるパネルの手前が表面?

池田
あまりそういう風には考えたことがないなあ。

大山
蝶とか金魚というモチーフも関係するかもしれませんが、アクリルのケースに入れることで、標本のような感じもすると思います。標本って基本的に、覗きこむというか、昆虫とかそういう普段正面からゆっくり見れないものをフレームの中に入れて、まじまじと見るようなものだと思うんですね。池田さんの作品もそういう感じがしていて、「見る」ことが強調されているような気もする。

池田
まあ、それはそうだと思います。最近の作品に関していえば、標本を作るような感じで作品を作っているという部分はある。さっきのデュシャンのアンフラマンスの話で、様々なメモを通じてその概念をぼんやりと描こうとしようとしているって言ったんだけれど、そのなかで「大衆の冷ややかな眼差し」というフレーズがあるんですね。つまり、グッと何かものや作品を、関心をもって見るというような視線ではなく、人々がさっと見るというか、ディスプレイを散漫に見ていくような、そういうある種の無関心な視線と読み替えてもいいと思います。たぶんこういった問題意識の中で、しっかり見る必要のないようなレディメイドを持ってきたりしている。その時点でのデュシャンの問題設定はわかると言えばわかる。つまり、デュシャンの頃に絵画、あるいは美術作品というのは、しっかり関心を持って見られるもの、焦点を合わせてきっちり見られるものとして成立していた。そしてデュシャンとしては、しっかりと見ることで、さっき言っていたような潜在的な可能性の状態が消えてしまう、可能性が一つのものとして固定化されてしまうということを問題としたのだと思う。いわば可能性と完成状態との狭間のスプリットを垣間見るための作法として「無関心な視線」とデュシャンが言ったのだと考えたい。しかし今、そうしたデュシャン的な手法、それこそレディメイドを使うとか、インスタレーション的に放置するとか、そういう手法があまりにも常態化してしまった現代美術においてこういう「無関心な視線」というのは、もはや有効性を持ちづらいように思う。そもそも現代美術を見るというのは、無関心な視線になってしまう、だって基本的にどれもつまらないから(笑)。

最初の話につなげる形でいえば「美しい」ということをどういうふうに考えるかということかもしれません。それこそデュシャン以降の問題ですが、「美しさ」そのものを追求するのではなく、「美しい」とは何か、あるいは「芸術とは何か」ということを認識論的に問うというのが、おおよそデュシャン以降の現代美術の命題として成立してしまったからだと思います。だからこそ、ふつうの意味での美的感覚に訴えるようなものが良い作品であるっていう、その基準を設定しづらいわけです。例えば、ウォーホルの作品が一般的な感覚として美しいと言えるかどうかは微妙ですよね。そうして、美の自明性みたいなものがどんどん疑われていく中で、デュシャンの投げかけた「無関心な視線」というのが今、かつてのように機能するかどうかと言われると、僕は難しいように思う。「美しい絵画」という自明の条件とか慣習が成立していないから。だとすれば、問題を反転させることができるかもしれません。つまり徹底して「関心的な視線」がいかに可能か、というふうに。そういう意味で、僕はかなりねじれた形で「美」っていうのを重要視するんだけれど、たぶん内海さんが使われている様に「美しさ」という言葉をストレートには使っていないように思うんですよね、良くも悪くも。

雨宮
一通り黙って聞いた方が良いかなと思って黙って聞いたんだけど。僕は池田君の作品ちゃんと見たこと無くて申し訳ないんだけど、いろいろ翻訳の話や表面の話とかわかるんだけど、時間ないから端的にわからないところを聞きたいのは…逆にわかんないところにしかチャンスないと思っているからさ。そのチャンスを聞きたいなと思ってさ、池田君が「2ちゃん見てさ、ニコ動見て」って言っている時のテンションがおかしいじゃん、なんか。ヘラヘラしててさ(笑)。その面白い感覚って、この作品のどこらへんに使っているの?もしくは、使っていきたいなって思うの?じゃないとさ、いくら物書くとか翻訳するのと、制作が別って言ったってさ、体の入れもんは一個しかないから…その不気味な感じって出てきたら…いいじゃん。それは押し殺しているわけ?

池田
僕自身が今テンションが変な感じで、かなり時差ボケみたいな感じになっているので…。

雨宮
ダメだって(笑)。一応僕と内海くんを呼んでいるんだから時差ボケの権利ないよね(笑)。

池田
いや、本当にその通りなんだけど。

雨宮
多分そこって聞かれたくないのかなって思ってあえて聞いているんだけど。っていうのも、こういうトークみたいなものって、そういう聞かれたくない話を人前でして、何しろ収穫を一番持って帰んなきゃいけないのは、喋っている人だからさ。ちょっと親切すぎるくらいの質問だと思うけど…じゃあ、それは考えておいて(笑)。で、最初の方に沢山話が出て、共通の興味として、少し展開したら面白いかなって話に移したいと思う。なので「美しい」の「美」について話した方が良いと思う。結局は「美術」についての話だと思うので、話を本当に急いでいくけど、一応、俺が規定している「美術とは何か」っていう規定って、これこそ誤解生じると思うけど、「クライアントが見当たらないっていう状態」だと思うのね。それが唯一の真実なんじゃなくて、俺が設定している美術の大体の大まかな感じ。それは、実際のクライアントがいないかどうかが問題じゃないのね。何を当てはめても良いんだけど、例えばデザインと美術どっちをしようかなーって思った時に、何が一番違うって言ったら、最初の設定として実際のクライアントがいるのかいないかじゃん。ただ、美術やっているやつも社会の中に生きているから、見せる対象っていうのは想定しなければいけない。見せる対象を設定することも、直截的ではないにしてもクライアントの設定でもあるわけです。ただ、それをしないことさえも美術には可能とされています。で、一番ここからがわかりにくいけど重要なところで。これ、内海君の美しい/危ない話にも関わってくるけど、美術ってクライアントを設定してないという態度をとりながらも、美術そのものがクライアントになりやすいんだよね。それらは時制の問題でもあり、一年前にやったことが「クライアントが見当たらない」っていう状態だとしても、同じ事を次の年にやった場合、クライアントが見当たっちゃう状態ってのが発生しやすいものだと思うのね。それほど、「美術」イコール「クライアントが見あたらない状態」をキープするのって難しいと思う。だから、「美術」って怖いもの。なおさらアートがある程度の誤訳をもって「美術」って訳されちゃって、で、そこに入っている「美」っていうのがあるから怪しいんだけど、実は内海君がそこをブラックボックスにしているのは凄く真っ当で、凄くまじめ。そこに関しては良い作家じゃないかなーって(笑)。いや、普通はさ、怖いものだけに無意識にそこを避けていくから、かえって美しいのかどうか?っていうのを考えちゃうじゃん。そこをブラックボックスにしていること自体は、凄い正解っていうか。美術っていうものに…少なくても漢字の「美術」で最初育って、途中から「アート」に出会ってっていう経験してったら、そうするのが俺は凄い真っ当だと思うし、だから内海君の「美しい」話はあんまり意地悪にいじらないようにしようって思うのは…気持ちがわかるから。

大山
そのクライアントっていうのは、文字通り作品を買うとかデザインに対してお金を払うとかという意味のクライアントですか?

雨宮
文字通りのクライアントもいるし、要するに売買が発生しない状態でも——本当の意味でのクライアントに売買が発生しないっていうのはおかしいけど——誰かに向かっているっていう状態。例えば美術館のキュレーターのために作っていたら俺の設定の中では実際のクライアントじゃなくてもそれは美術じゃないのね。一方では、「美術犬」の一回目の時に田中功起君がアウトサイダーアートはアートじゃないって言っていて、それは意味としてわかるんだけど、でもアートってついているからアートなんだよね、それはまっとうな意味として、それは間違えなくアート。例えば、「この新しい今までの掃除機にはなかった機能をもつ掃除機は掃除機ですか?」って聞かれても、「掃除機です」としか答えようがない。それと一緒の意味で、アートってついちゃっているものはもうアートなんだ。それくらいアートっていうのは良い意味でも悪い意味でも懐が深い。ただ、それをかわしていかなきゃいけないっていうのは、少なくても俺らの使命にはあるかなって思っている。で、なんでそんな風に思うかという事について、多分僕の原体験としては、やっぱ今日せっかく来てくれたから普段絶対しないような話しようかなって思うんだけど、多分十代後半の時、あんまり早熟じゃなかったから美術の予備校に入るくらいに美術のことちゃんと考えだして、その時僕、水戸にいたんだけど、予備校で石膏像を描いたりするじゃん。自分の成り立ちにほぼ関係の無いギリシャとかの彫刻のイミテーションの石膏像を一生懸命描いたりするんだけど、予備校の前の国道を挟んで向こう側に水戸芸術館っていうところができて、そこで「ローリーホーリーオーバーサーカス」っていうジョン・ケージの作品があって、その作品自体が「チャンスオペレーション」っていうものを作って、それが展覧会自体を決定していくっていう作品だったんだけど、多分僕にとって、展覧会との出会い方が良かったのはロサンゼルス展と水戸展しかない間にジョン・ケージが亡くなったという事実だったと思う。要するに、ジョン・ケージが言っているようなことって基本的に素敵な「うわ言」じゃない。「うわ言」をもう色んな形で実践してきたけど、僕は、死んでしまったが故に、うわ言が純粋に実践されているような感じを、原体験でできた。要するに、石膏描いている自分というのは「大学受験」という完全なクライアントがいる状態じゃない。クライアントがいるんだけど内容がないわけ。もちろん、やっている個人のモチベーションとしてはいろいろあるよ。あるんだけど、実際はその形式と内容に関していうと、内容が抜けた状態でクライアントがバーッと存在していて受験をする。ただ、その国道の向こう側の水戸芸術館では…「何やっているんだろう?この人」。だから、そこでさっきの「美術」、「美しい」っていう話もつながるけど、要するにbeautifulじゃなくて、interestingなものなんだっていうのを体感的にその時に思ったし、あれ級じゃないとどっちにしろ僕はアートじゃないってふうに思うのよ。だから、僕もまだアートできているって全然思えない。「美術」たり得ているかどうか?という設定としては、僕はあそこら辺を設定しているんじゃないのかなって。

池田
クライアントっていうのは「目的」みたいなものですか?基本的にデザインには明確な目的が必要ですよね。

雨宮
そう。ただ、実際のクライアントがいたらすべてアートにならないというわけでもない。これは面白いなって思っちゃうことあるよね。デザインでもアートに踏み込んできちゃう場面あるじゃん。あれって説明つかないなって思ってた時に、俺としては「美術」に対して、そういう想定をしている感じ。

大山
今のジョン・ケージの話は、池田さんがさっき言っていた視線の話、デュシャンの話にちょっと近いのかなという気がしていて。デュシャンの時は、作品をしっかり正面から見るっていう風潮が強くて、それに対してあえて無関心な視線ということを言ったという話だったと思うんですけど、ケージも音の出ないコンサートというのをやっている。音楽は普通に聞くものだとか、ライブっていうのは目の前にステージがあってそこでパフォーマンスが行なわれるとかっていう前提に対して、ああいうケージのパフォーマンスが成立したのかなっていう気もするんですよね。

池田
ただ、さっきも言ったことですが、今となってそういう前提自体がもうなし崩しに消滅している感じがしていて。要するに、何やっても「ああ現代美術ですね、以上。」って感じで回収されてしまう(笑)。

大山
そこで、もう一度視線を、正面から見ることを考えるというのは確かに一つの可能性かなとは思う。ただ、必ずしも正面から見るというだけのことではない気がしていて。例えば、シャルダンに近い感じもする。要するに、画面の中で完結した世界があって、もちろん正面から見るんだけど、その画面自体はあらかじめ見られるということはあまり前提にはされずに…池田さんの作品が標本みたいにアクリルで覆われて、そこで完結している世界っていう意味では、正面から見るといってもあらかじめ視線に耐えうるとか、視線を意識して画面ができているわけではないのではないか。

池田
あまりこういう話はしたくなかったんですが、どうも頭が冴えていないようなのでしてしまうと、マイケル・フリードという人が、アブソープションとシアトリカリティということを言っていて。日本語では「没入」と「演劇性」。18世紀絵画の、例えばいま大山さんが言われたシャルダンには「没入」があると。絵画の中で風船を膨らませている人とか、トランプ遊びに熱中している人なんかをシャルダンが描いていて。絵画のなかで絵画に登場する人が自らの行為に没入していて、観客が切断されているような感じ。であるが故に、その画面に惹きつけられるのだと。「演劇性」の方は反対で、観客側の視線を演劇の役者みたいに集めることをいうわけです。こういう演劇性の強い作品は、うっとうしいから没入できないぜ、と(笑)。むしろ内側で完結しているからこそ、そこに没入できるんだということ。今、言いながら思ったけど、雨宮さんの作品の構造っていうのは、そういう「没入」の線に近いのかなっていう感じがする。さっき僕が疎外感と言ったけれど、その疎外感があるが故に、そこに没入していくような観客のポジションはありうるでしょう。他方、内海さんのインスタレーションはある意味で「演劇性」の方に近づいていく部分すらあるのかもしれない。だから良いとか悪いとか、そういう意味ではないですけれど。

雨宮
そうだと思うよ。要するに、疎外もその逆も、基本的に与えきっちゃダメなわけだから、考えなきゃいけない。僕も考えなきゃいけないけど、見る人もやっぱり考えなきゃいけないっていうジャンルであることは間違いないと思うから。そのためには、作品が発する方向性は疎外感でも何でも良いと思います。

池田
しかも、いわゆる演劇みたいな感じで観客に向かうことは避けているじゃないですか。そこは結構、雨宮さんとしては重要なのかな、と。

雨宮
じゃないかなと思う。普通にやっぱ、アピールされたらやだよね。それ、凄い難しい言い回しだけど、簡単に言うと、普通に、恋愛で追われると逃げちゃうみたいな話でしょ?

池田
そうそう(笑)。

雨宮
それの何か、俺的にここじゃないかって思ってるポジションがあるんだと思う。そこは、言葉では絶対説明できないんだけど、押して引いて押して引いての、そのラインが多分あるんだと思う。それは作品見て、感じて下さい(笑)。

内海
でも、クライアントに投げるというよりは、やっぱりもっと遠くまで投げるというか、青天井のとこに持っていくみたいな。

雨宮
うん。瞬間瞬間で見ると、クライアントがいない。で、それが長く持続するものほど、一応、良い「美術」だっていうふうには僕も判定している。