大山
では、3方の基調報告を終えたところで共同討議に入って頂きます。
池田
いきなり難しくなりそうなところから聞いてみると、内海さんは何度か「美しい」という言葉を使ったと思うんですよね。雨宮さんは一回も使っていない。
雨宮
使わないよ、危なくて使えない(笑)。内海君はその辺をわかって言っているだろうから、後で聞こうかなと思うけど。なんか、ブッラクボックスにしている部分がなきゃ、まず作家としてできないわけじゃん。
内海
まあ、そうだね。
雨宮
そのブラックボックスの部分に「美しい」を当てはめちゃっているのが、すげー危うくて良いなと思うんだけど。普通、当てはめないはずでしょ、そこ(笑)。だから聞いた方が良いんじゃない。
内海
それは個人的になってくるよね。「 美しさ」って僕は言うよ。(美しさ)なしで進むことは難しいんでね。すごくプライベートなことになってくるでしょ、美しさって。人それぞれ違うからね。それはわかった上で言っているんだけど、美しさこみじゃないと、言語がすごく大量に必要になってくるのね。僕は目の位置だけと言うか、なるべく見たもので作品を成立させようと思っているので。作る時にはもちろん言語とか理論とか必要になってくるし、作り終わった後にそれを理解するために言語とか理論は必要になってくるんだけど、出来上がったもの自体には「 美しさ」がないと、さらに多くの言語が理解のために必要になってくると思ってるんですよ。美しいということは、説明がいらなくなる事じゃないかと思っていて。
雨宮
今の話に出てくる「美しい」は全部「X」でもいいわけ?でも「X」じゃ駄目で、「美しい」じゃないと駄目って事?
内海
「X」?美しいという状況ですよ・・それは美しさを「X」として、「X」の要素があるということ?
池田
例えば「豊かさ」では何か違うわけですよね。
内海
美しいということ(の内容を)を言語で詰めて行くというのはわかるんだけど、ただ、もう(一言)「美しい」でいいじゃんと思っているんですよね。だって「鈍さ」とか「美しくなさ」と言いましょうか、創作物が作品に至らない事の美しくなさを補正するのはその人の持つ美しさの感覚だと思うから。それで僕は、美しいという状況、その人がよしと感じる快の感覚から離れることはできないと思うんですよ。制作において。僕は良いものとして美しさを定義するけど、制作をする時に良くないもの、美しくないものに向かうことは絶対できないと思っていて、自分が造っていてこれ良くないなと思う時は求めている美しさからズレてしまったということだと思うんですよ。あえて良くないものを、自分が良くないと思うまま一生懸命造っていく——ただグチャグチャっと描いて「はい良くないでしょ」って言うのは無しで。だから、一生懸命、自分の意志の下造っていくという延長上に「美しくなさ」ってのはないんじゃないかな。だから、そこは考えるまでもなく、美しさという言語でそのまま飲み込んで造ってしまっていいんじゃないかと思っているし、それを排除するというのはないんじゃないかと。僕はそこに疑問を持つ必要もないと思うんですよね。美しさを排除する言語とか言説があるのもわかるけど・・しかも、美しさっていうのを明確な何かとして僕は使っているわけではないから。
大山
そこがポイントな気がしていて、今、実は良いという言葉と美しいという言葉を同じものとして扱っている。そこはちょっと違う。美しくないものが良い可能性、あるいは作品として良い可能性はありえると思います。
内海
でも美しくないものを良いと感じるときは、それは美しさを見出しているという事でしょう?これは言葉遊びみたいになっちゃうから・・。
雨宮
「綺麗」という意味の美しいではないんでしょ?
内海
ではない。「綺麗」と「美しさ」は違うと思う。
大山
もう一つ思ったのは、美しいにもいくつか種類がある。例えば内海さんの作品には空間を覆うようなでかい作品があります。基調報告の時にも空間に体が入っていくという言い方を何回かされている。で、あれだけ大きいとやはり身体的な感覚というのがあると思うんですよね。だから、必ずしも視覚的に見て美しいという目のレベルの話だけではない気がしていて、身体で感じるということを考えた時に、例えば綺麗なものを見て感動した時に鳥肌がたつということがありますよね。すると視覚的な感覚というのが、身体のレベルで現れてくるということもありうると思う。
内海
それは、自分では「眼」といっているけど、実際に作品のある空間まで眼を持っていくというのは体がくっついているので切り離せないんですよね。眼を持っていくには、頭があって体があって足がついているからそこまで行けるんですよ。だから僕が眼と考えている時には体も込みです。ただ、その状況を享受する最初の感覚は眼だと思うので、眼がなければやはりそこに行き着かない。そこに匂いがあろうが何があろうが、一番最初に意識するのは眼なので。
池田
雨宮さんが「美しい」という言葉を危険だ言われたし、そこは僕もよくわかるんですね。
雨宮
僕は批判しているわけではないですよ。でも、そこに危なさは2、3通りあるじゃん。一つ目には、内海君の作品は実際、色がカラフルだからさ。カラフルであること自体に「美しい」っていう言葉がはめられちゃったら一番良くないでしょう。二つ目は沢山の人が過去に触れていることだけど、単純に美術という言葉の「美」っていう字、アートが美術って翻訳されてしまったっていうところの「美」の意味にも絡んでくる。だから、そこらへんが危うい。でも俺はその危ういところが面白いなって思った。あとはさっきの話をつなげて僕と内海君の共通点を考えると、「身体」が入っていくって言うところかな。多分、今話されていることって全て、身体こみじゃなきゃ全く成立しないようなことばかりだと思うんだよね。例えば池田君が言っているトランスレートのことも、それだけだったらマジで意味ないから。身体が伴った状態でようやく成立する感じかなって思っている。これも散々いろんな人が言っているけど、トランス〜ってついているような、間に入る感覚のものっていうのもさ、わかりにくい時代にみんなが使う言葉じゃん。俺も一時期使っちゃてさ(笑)、展覧会のタイトルで。結構言われたしね。でも、あれはどっちかというと尊敬の意味があって。俺、英語力かなり低いけど、俺の好きな小説の翻訳をだいたいやっている柴田元幸さんていう翻訳家の人がいて、柴田さんは翻訳の世界ではヒーローでしょ。柴田さんていう名前だけで、日本で無名のアメリカ人作家が売れちゃったりするんだけど、この人の翻訳本を読んでいたら作者よりもこの人がすげーんじゃないかと思ってきて。とりあえずそれで会おうと思って、調べたら東大にいるらしいってことで会いに行って。話はそれたけど、ちょっと前に僕が個展をやった時に僕も池田君と似たようなことを考えたことあるのよ——今あんまり池田君の議論に乗っちゃうのは嫌だから、もっとでかい話したいし、だからあんまり乗らないようにするけれど——ただその時点では「翻訳性」について考えていて。だから逐語訳にした方が良いっていうベンヤミンの話もよくわかる。翻訳に余計なというか丁寧なエフェクト入れていくと、エフェクトだらけになちゃって結局ものが見えてこないから。だから、何かを描くならその意訳的なイメージを描くのではなくて、それをじっくりそのまんま描いちゃった方が良いっていう。そういう意味での翻訳ということをすごく考えていて、それをやり続けるとさ、予備校生でもわかるけどハイになってくるじゃん。それを僕は「ミスター・トランスレーターズ・ハイ」だ、と思って展覧会を準備していたら、柴田さんが村上春樹と二人で翻訳夜話っていう本を出して、それに冗談みたいな対話の中で「トランスレーターズ・ハイ」って言葉が出てきたんですよ。ランナーズ・ハイみたいなものがトランスレートする行為の中に実際にあるんだっていう話をしていて。これは良いタイトルだと思って、それで「そういう経緯です」って柴田さんにも説明して、個展のタイトルとしてつけたっていう。ただ、その話って言うのは頭の上を飛び越えているような話では成立しない。それは身体が伴ってようやく成立するっていうか。だから多分、今池田君にそういうリアリティがあるとすれば、実際それを自分の体を使ってやっているから。
大山
池田さんが言った逐語訳っていうのはむしろ、言葉の身体性と言うか物理性みたいなものに注意するっていう意味なの。よくネットの辞書ツールとかでそのまま文字をいれてそのまま変換すると分けのわからない文章とかが出てきて、これでは変換したにも関わらず意味が通じないと。だから皆、意味が通じるようにちょっと手を加えて翻訳するんだけど、むしろ逐語訳した時に出てくる違和感とか、ざらつきとか、言葉を意味ではなくてものとして見ないといけないっていう。そこに物質性とか、大げさに言えば身体性みたいなものがあるっていう意味だと僕は思っていたのだけれど。
池田
基本的にはそうだと思います。文字というものが単に記号としてのみあるんであれば翻訳は可能なんですよ。それがある種の物質性を持っているからこそ、横にずらした時にどうしても翻訳しきれないような違和感っていうのが残る。さっきしていた模写の話はすごく面白いと思っていて。「リアルに描く」という言い方をしますよね。ものの質感とか、見えているものを、油絵の具というメディウムにおいてリアルに描け、と。
しかし、リアルに、それこそ逐語訳的に描こうとすればするほどに、絵具のメディウムとしての物質性がどうしても現れてくる。例えば日本の画家でいえば高橋由一はその典型でしょう。花魁の髪飾りのディテールまで、徹底的に目に見えるものを細かく描こうとすればするほどに、絵具をのっけて描いているという違う意味でのリアリティ——内海さんの話じゃないけれど、絵具の物質そのもののリアリティが立ち上がることになる。むしろそれが面白いと思うわけです。こういうことを僕は翻訳の可能性だと考えたい。強調しておきたいのは、なにか翻訳不可能なものの残余がリアリティとして立ち上がるというような話でなく、非常にベタなレベルで目の前にあるものを、別の文法に触れさせながら変換していくと、ぐにゃりとねじれ曲がっていく、そういう可塑性を孕んだ変換のことを考えたいわけです。
内海
対象を見て描こうとした時に、絵具で描かれたものっていうのは感覚や認識を翻訳されたものじゃないですか、自分の中で。とは言っても、絵具自体、その物質自体が翻訳されるわけではないので。この絵具の部分をどうするかっていうのは・・絵画にはどうしても絡んじゃいますよね。絵具をやっている、絵具を操作しているわけです。
池田
内海さんの場合は、何かを描写するというのではなくて、「絵具で絵具を描いている」とも言えるのかもしれない。
内海
絵具を描いている、置いている、見せているみたいな感じですね。僕がそれになったのはやっぱり・・最初は僕も何かしらイメージというか、先行するものがないとやっぱり画面に筆がのっけられなかったんですよ。例えば、ある状況とか、ある立体感のようなものをイメージしたりとか、そこに発生するするイメージや色をのせたりってことだったんだけど、結局その追っているものをリアルに支えているのは絵具で、絵具自体が美しいからそこに出来上がるものも美しいんじゃないかって。(考え方が)クルっと回ったらやりやすくなった、その事で地に足が着いた感覚がリアルにあったんですね。
池田
普通に考えれば「抽象的」な絵なわけですよね。でもそれを「絵具で絵具を具象的に描いている」って言ってみたい気がするんですが(笑)。
内海
うーん、難しい(笑)扱っているっていうのならわかるけど、絵具を描いているってなると・・絵具の関係性を描いているくらいの感じで、行為自体は絵具から離さないと俺の中でしっくりこない。絵具を例えば美しいって思ったからって、チューブから出しただけで「ほら、美しいでしょ」ってことにはならないから、この絵具が美しいってなるには操作が必要になってくるんですよね。その本当にシンプルな操作の一つとして、空間を含めて制作しているって事なんですよね。
雨宮
ってことは、やっぱり絵具が別に美しいわけじゃないんでしょ?
内海
結局は絵具が美しいからなんだけど、わかりやすいから絵具って言っているけど、絵具の操作性が美しいということかもしれない。絵具って錬磨できる素材だと思うから、マテリアルとしてね。
池田
ということは、描くっていうプログラムそのもの、要するに絵画が美しいってことなわけで…。
内海
その「絵画が美しい」にはしっくりきます。
池田
なるほど。ちょっと議論が詰まってきているから別の角度からの例を出してみると、デュシャンが「アンフラマンス」っていうことを言っていて。すごく薄い、「極薄」というような日本語になっています。デュシャンはそれを明確に定義づけているというよりは、色んなメモみたいなものを通じて説明していて。雨宮さんが言っていたこととも遠くはないのかなと思うメモのなかで、「絵具のチューブがスーラに変わる瞬間」、この間にあるのがアンフラマンスなんだ、と。要するに絵具自体でもないし、かといって出来上がったようなスーラの作品それ自体でもない。いわば、その間にあるような膜というか境界線というか、そういうものがアンフラマンスなんだ、というわけですね。絵具のチューブって、何かしら可能性の状態というか、内海さんの言葉でいえば、美しく現れる前の、潜在的な、隠れた可能性の段階としてある。その美しさが実現される時にはスーラであったり、あるいは別の作品という形になるんだけど、デュシャンはその境界線にこだわるということがあるわけです。多分、内海さんはどれだけ結果のものを美しく見せられるかっていうことに向かって突き抜ける感じになると思うのだけれど、どっちかというと雨宮さんがやろうとしているような作業は、こういったデュシャン的な境界に触れる感じもする。
一方に手の込んだインスタレーションを作り、他方それに対応するような鏡の映像を作って、その間にパフォーマンスを行う作家自身が出てきたりすることで、現実の側のインスタレーションとその反映としての映像との関係を撹乱させるようなものとしても位置づけられるかもしれません。単に成果物としてインスタレーションとして完成度が高いとか、あるいは美しいとかかっこいいとか何でもいいんだけれど、そういうことよりは、あるものとあるものとの関係性そのものを見せようとしているという感じがしなくもないんですけれど。
雨宮
元々、僕が思っている原体験みたいなもの自体がかなりあやふやで、物質に宿っているわけではないから。物質に宿っていないものを人に見せる時に、物質に宿しちゃ駄目だろうっていうのが僕のすごいシンプルな考えで——絵画の話はちょっと待って、複雑になるから——あとは二重性だとか、複雑な手法を考える時に・・実際シンプルに言い切った時にシンプルに言い切れた気がしないんだよ。何かやっぱり偏るじゃん。で、結果的にいくら多重にしていったって偏りはでるの。でも、偏りを正確に出したいと思うのね。じゃないと、何かものすごいこと考えててやっていない限りは、その微妙な偏り方ってすごい追いつめていかないと、人様に見せるのに値するものにならないなっていうのが自分の感覚としてあって。多分、そこを突き詰めようとするとああいう説明しにくいものになっていくんじゃないかなと思う。
雨宮
さっき言ったんだけど、日常でおこる、ちょっと日常を剥離したような感じ。すごい大まかにいうとそれに近いかな。
内海
例えば、絵画は一般的に一つの「もの(物)」として捉えられるのね。行為が終わった瞬間の最終的な「もの」として捉えているから。僕は——さっきの池田君の言い方をすれば——突破するというか、 ものとして突破する。でも、僕自身は制作者なので、最後の瞬間だけ見ているのではなくて、そこに向かう経過があって、その経過がさっきのインフラの部分になってくると思うんだけど。雨宮君の小さな違和感ていうのは、例えば優勝した瞬間みたいに結果としてあるんじゃなくて小さな違和感だから、対応する「もの」みたいな部分がなくて「こと(事)」なんだと思うんだよね。だから、その「こと」を見せるためには「こと」として成立させないと。例えば——その感覚が具体的にはわからないけど——「あれっ」ていう感覚におちいる時に、「あれっ」だけを持ってくるんじゃなくて、その手前の「あれっ」に至るところがないと「あれっ」のところにならないのね。すごい漠然として悪いんだけど(笑)
雨宮
具体的に説明すると、昔よく説明に使っていたんだけど、漢字を書いた時におかしな気分になるってことなかった?
内海
同じ字を何回か書くとおかしくなる。
雨宮
正しい字を書いているにもかかわらず、これ、違う字書いていないかなーと思うんだけど、辞書で調べても同じになっている。そのおかしい感じっていうのは多分「こと」なんだろうってことだよね。それは普通に当たっているし、多分、普通のことなんだけど、絵画の方でさっき難しいからって止めたのは・・絵画は微妙だよね、絵画ってできあがりとしてはかなり物質なんだけど物質的な部分である種の「透明」を獲得しているじゃない。これもかなり印象論になるんだけど、写真って映っている画像が内容であるにも関わらず、まだ物質に絡め取られていることが多い気がするんだけど、で、映像はどうかというと映像の方がよっぽど厚みもないし文字通り光なので透明なんだけど映像は映像・・・でも絵画って、物質って思えば思えるけど、でも見方によっては、厚みの事とか考えなくてもすむじゃん。だから半透明なものだと思う、すげーあやふやなこと言っているけど(笑)。
池田
イリュージョンっていうことですか?
雨宮
そうそう。今、絵具絵具って言っている人がいるからまぎらわしいけど(笑)、絵画ってそこにキャンバスと絵具で描かれてこうなっています、ということを考えなくても鑑賞可能なツールとしてあるじゃない。完全にじゃないよ。でも、俺としては半透明な感じがするのね。
内海
そこは僕は、「絵画」と「パネル」と「空間」に分けて考えている。
雨宮
内海くんがそれ話しだすとわかんなくなっちゃう(笑)
内海
わかりやすいと思うんだけどなぁ(笑)。でも、パネルは現実にあるでしょ?絵画というものはパネルという枠の中っていう概念なんだろうけど、実際はその周りの空間があるのが宿命、絶対条件だから。いきなり画面の中のイリュージョンのところだけバカーンって目とか頭の中に持ってくることはできなくて、その絵画のイリュージョンゾーンに行くために移動しなければいけないし。例えばパネルを(壁に)埋めたとしても絵具の厚みがあるし、それは絶対にあるものだから、絶対にあるなら考えなきゃいけないよねっていうのが僕のスタンスなんですよね。
大山
今お話を聞いていると、雨宮さんと内海さんの考えが違うんじゃないかという気がしなくもないんですけど、たださっき出た「可能性」の話を考えると二人の接点も見える気がしていて。例えば内海さんが、絵具はそのままではまだ美しくない、美しい状態になる前の絵具があって、それを画面において絵画となった時に絵具が美しくなるという時に、潜在的な美しさが絵具にはあるっていうことですよね。
内海
はい。
大山
絵画の画面上で絵具が実際に一つの美しい形として現れてくると。だけど「可能性」がその手前にあるということは、違う形で違う美しさになりうる可能性もあったのだと思うんですよね。つまり、実際の作品としては一つの作品になると思うんだけれど、その手前の絵具の状態というのは別の作品、別の美しさとして現れてくる可能性もあった。
内海
当然(その可能性も)あって、実際にそうですよね。僕だけの問題ではないので、絵画というのは。
大山
そういうふうに考えた時に・・雨宮さんはさっき、作品をシンプルにしてしまうと偏りがでる、その微妙な偏りをちゃんと追っていかないと人様に見せるものに値しない、それで作品が複雑なものになっていく、ということを言っていたと思います。作品では、映像のなかに実際にインスタレーションが行なわれている部屋より少し前、近過去の状態が映されていて、オーディエンスはその近過去の映像を見ながら今自分はその部屋に立っている状態になるわけですよね。で、映像のなかで乱痴気騒ぎというか、色んなことが起こっている。オーディエンスはそれが終わった後の空間にいると。そこで、事後感というか、遅れてきたという感覚が強調されると思うのですが、ただその「後にきた、遅れてきた」っていう感覚って、実はその映像を「今」見ているという条件のもとで生まれている。それを考えると、単純に過去/現在という分け方というより、今の視点から目の前に過去の状態を見て、さらにその上で事後感が生じるというような凄く入り組んだ重なり合いがある。そうなると、違う「今」でもあったかもしれないとか、違う時間や違う空間に今自分は来ていたかもしれないとか、あり得たかもしれない違う可能世界を考えさせるような作品なのではないかという気もするんですね。もちろん、インスタレーションと絵画って全然違うと言えば違うんですけど、実体化された作品/現在と他でもあり得た可能性の関係という観点で考えると、お二人の仕事の共通点も見える気がする。
雨宮
僕にとって、僕の思っていることっていうのは解明もできないし、基本的に伝えることもできないと思っているんだけど、色んなとこで話しているけど、最終的に触れてしまってそのままにしていいのって「現在」の話だなって思っていて——この話はすると長くなるけど——関わるなら「現在」の話をしたいとは思っているからそう思うんじゃないかなって思いますけど。要するに、凄く壮大な過去のことだったりとか、まだ見たことのない遠い未来の話をどれだけ具体的に描けたとしてもあまりそこに興味がないし、そこには僕のだせる感覚みたいなものっていうのはなかなかお題としてない。だから、当たり前の話かもしれないけど、「現在」に関われるのが凄く良いなって思って今の形式を使っているんじゃないかな。
池田
例えばふつうに言えば絵画というメディウムは現在性が強い。一般的にいえば絵画と鑑賞者が1対1で向かい合い、今ここで瞬間的に作品が一気に把握されるという、ある種の現在性——瞬間性って言っても良いかもしれないけど——を持っている。それに対してインスタレーションとか映像っていうのはどうしても時間性を孕んでしまうというか…
雨宮
言い方が難しいよ。それは鑑賞する術として現実的に時間をとられるっていう話でしょ?絵画だと一秒で全部わかるけど、40分の映像だと少なくても30分は見ないとわかんないとか、5分は見ないと見たっていえないだろうっていう話。
内海
雨宮君はさっき、9時間の歩いている映像を全部見て欲しいって言ったけど、実際はどれくらいを設定しているというか・・例えば渋谷のパフォーマンスも何十日もやった時にやっぱり全部見れる人はいないわけでしょ、絶対。
雨宮
一応展覧会を開催する者として勝手に設定はしているんだけど、基本的な映像インスタレーションの場合は、なんかね、19分って思っている(笑)。それは俺が思っている最大の量。で、そこに実際の身体が入って行為する、みたいなやつはもう設定できないよね。みんな少なくとも10分くらい見るのかな。10分くらいは見るけど、その先が5時間になる人もいて、5時間の人が次の日にもう一回来て、さらにその後に2日後に来て、6回×5時間見てくる人とかもいるの。俺は会っているからわかるじゃん?そんなのもう想定できないじゃん。この人こないだ見たから、次はこういうことやらなきゃとか・・でも、基本的にその場でずーっと考え続けなきゃならないからそうするんだけど、それは想定できない。きっとそれは映像の時間と同じには考えられないと思う。身体が入った時点で簡単なループにはならないから。あと、赤坂のやつに関してはもう設定なし、時間の尺に関しては。もう見てわかればいいって思っている。
内海
例えば、雨宮君の作品のパフォーマーとか出てくる人って、普通の格好じゃなかったりするじゃない。サングラスでスキンヘッドだったりとか。
池田
水中メガネ。
内海
水中メガネとか(笑)。あと、動き自体も。だから、何かを抽出しているにしては凄くノイズが多いような気がするんですよ。でも、もしそれが時間設定が短いから。例えば何かある「こと」を表現したい時に、その「こと」を受け取る時って凄くノイズがあるじゃないですか。でも、その時だけ「ふっ」と思ったわけじゃないですか。その「ふっ」とした瞬間を作るために、俺はあえてノイズを作っているのかなと(思った)。その短い時間を設定するなかで要素を凝縮する為にね。
雨宮
さっき「こと」って言ってくれたのは助けになると思うけど、「こと」に対して「こと」を出してもやっぱり違うんだよね。俺としては近づけているつもりなんだけど、それがノイズっていう言葉になってきたりっていうのは多分、自然な現象だと思うんだ。ただ、物理的にあんまりスペクタクルなものになったら、やっぱり「現在」の話をしていることじゃ無くなってくるって思う。なので、展覧会と展覧会を作る手法が地続きじゃないとダメっていうふうには思う。要するに、急に空飛んだりさ、魔法使ったりとか映像では可能じゃん。でも、それは基本的にはしないで、特殊な編集を用いずに実際に映像で撮れるものっていう範囲でやっていた方がいいなっていうのは、選択肢として僕は使っている。
池田
その時に使っている方法論の話をもうちょっとしてみたい気もします。つまり、インスタレーションみたいに配置して、かつそれを映像に——鏡に映っているかのように映像でみせて上演している。例えばそういう方法を通じて、どういう経験を引き起こそうとしているのでしょう?
雨宮
もう一回詳しく聞いて?
池田
内海さんも言ったけれど、かなり色んな要素が入っている作品だと思うんです。それぞれのオブジェみたいなものがまずある。で、それがインスタレーション的にある空間の中に配置してある。で、同時にそれが映像で映っていて、あたかも鏡であるかのように——実際の鏡ではなくて鏡であるかのように——配置されていて、それらの関係のなかに、さらに別の要素が入ってくる。だからこそ実際の鏡ではダメなのでしょう。だから、さっきアンフラマンスの話で境界線って言ったけれど、単に映像単体っていうわけでもなく、インスタレーション単体でもなくて、その両者の関係性の中で何かを作ろうとしている。それは内海さんが言われたような、観客をインスタレーションのなかに取り込むっていうのとはちょっと違う感触を持っているような気がするんですよ。むしろ雨宮さんの方は、作品として閉じている感じ、完結している感じが強い。観客はその完結している作品の中で取り残される、疎外される感じすら受けると思うんですよ。内海さんの場合は、もっとストレートに観客を巻き込んでいく部分があると思うんだけれど、雨宮さんは観客を積極的に疎外していく感じがある。
雨宮
多分ね、自分がやっていることを詰めていくと、観客は疎外されるって。だから、俺今すごい褒め言葉に聞こえたよ。
池田
そう、褒めてるんですが(笑)。
雨宮
で、多分すっごいはまった人はすっごいはまっちゃうんじゃないかな。でも、ほとんどの人はそうじゃなくなっていくんだと思う。それは・・それ表現だよね、それが。だから多分、内海君が「美しい」っていう言葉の中に隠していることガンガン曝け出していったら、ほとんどの人が疎外感受けるよ。すごい疎外感受けるんじゃないかなっていう気がする。
内海
というか、その「美しさ」を自分の中で追っていったら、もちろん一人になるんだけれど。でも、共感する人を一人にできるほど、能力というか、画面の質を上げるっていうのもまたかなり難しいと思うよ。逆に、一人になりきれないところもあるよね。だから、共感を得られないまで作るのは相当難しいよね。人に共感されないくらいまで作るっていうのは。
雨宮
ああ、それは無理。
内海
全然無理でしょう。
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