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con tempo

大山
今日は、遠いところまでわざわざお越しいただきありがとうございます。司会をやらせていただく大山です。よろしくお願いします。前回、4月の後半にいちどcon tempoにて、批評家の千葉雅也さんと今日ここにもいらっしゃる池田剛介さんで「絵画を再起動する」というシンポジウムを行いました。今回はそれに続いての2回目となります。前回は批評家をお呼びしたということもあり理論的な話が中心だったのですが、今回は実制作者による「制作の言語を制作する」というテーマでのシンポジウムを行う運びとなっています。

なぜ「制作の言語」ということをこのような形で考えようとしているかについて少しお話しします。美術において批評の影響力が非常に少ないという現状があり、さらに制作者が何を考えて、どういう方法論で実際に制作を行っているのかということになると、なかなかそれをオーディエンスと共有する機会も少ない。実制作者どうしで互いにそういう問題点を確認したり、確認する中から何か新しい発見があるということが比較的少ないんじゃないか、という問題意識がこういうことを企画している側としては常々ありました。もちろんそれが綺麗に合意形成されるというようなことはないでしょうが、むしろひとつにまとまらないような状況を確認しつつ「どういった作家の言葉というのが可能なのか」という点を、この機会に考えていけたらなと思っています。
では基調報告に移りたいと思います。内海聖史さんからお願いします。

内海
よろしくお願いします。作家の内海です。僕は油絵の具でペインティング、絵画を描いているんですけど、その絵画をどのように見せるかということと絵画自体をどうするかということ、さらに絵画のある空間に身体がどのように入っていくかということをおもに考えています。「絵画」というもの自体はとても沢山の物事が内包されて「絵画」となっているけれど、それを細分化していったときにどこを突出させていくかということを、様々なバランスを考慮しながらその空間と共に考える、というのが僕の制作の仕方です。

作品自体は、パネルに綿布を張り、下地処理をしてから油絵の具を点描状に乗せてゆくという作業をして、それによって「絵画」と「絵画による空間」を作っていくという、シンプルなやり方です。(プロジェクトされた画面を見ながら)このように作品と身体が空間の中で1対1で対峙している状況、つまり空間の中に作品が1点あり、そこに身体が入っていくという状況がまず一つめの空間のあり方です(①参照)。その状況によっては、「1点の絵画」という感覚も、絵画そのものとして置かれる場合や、絵画のパネル自体の要素を突出して空間構成の要素とする場合もあります。絵画って一応平らという前提がありますけれど、パネルとして曲げてしまえば空間を有することも出来る。展示場所によって絵画が持つ空間への可能性がどんどん変わってゆく。それをひとつひとつ精査してゆく、というやり方を基本的にはしています。これは、先ほどの「ひとつの空間に一つの作品」があり、そこに身体が入っていくことの延長で、近年進めているやりかたです(②参照)。

1)色彩の下2004 撮影:柳場大

02)十方視野ランダム2009 撮影:長塚秀人

例えば、このように、ひとつの空間に対して多数の作品によって、空間を作ってゆくこととか、状況によって、色彩の要素をグラデーション状に抜いたりと展開している作品です。これは今、青山のスパイラルに展示している画像です(③参照)。

さらにもっと小さい、これらも一つ一つが他の絵画同様、パネルに綿布を貼った状態のものに油絵の具で描いている5×5センチ角の絵です(④参照)。 これらが空間によってどのように見えるかというのを繰り返し展示しています。空間によって作品の見え方が変わってゆくとか、身体の入り方が変わってゆくっていうのは、絵画が絶対に持っている前提条件なんですよね。それを空間ごとに精査していくことで、もっと絵画自体のあり様が幅広く見えないかなと考えています。先ほど曲がった状態で展示したものは、空間を変えると一面の絵画になる(①→⑤参照)。

03)十方視野グラデーション2009 撮影:長塚秀人

04)三千世界2005 撮影:長塚秀人

05)色彩の下2008 撮影:長塚秀人

06)三千世界2008 撮影:長塚秀人

07)十方視野グラデーション2009 撮影:池内務

08)色葉を踏む2005 撮影:長塚秀人

これも先ほど小さいのがたくさん並んでいるものを大きくしたものですね(④→⑥参照)。空間的にも変化して、展示にも1列づつ段差をつけている。完全にカチッと並んでいるものと段差があるものとで観え方や空間の認識が変わってゆく。観え方が変わっていくということになにか意味があるかということではなく、変わっているということ自体が重要なんだと思うんです。先ほどランダムに中くらいの作品を展示していたのは、別の場所だとこのようになる(②→⑦参照)。だから空間によっていくつもベストな展示状況とか、見せ方みたいなものがあるんじゃないかなあと。あとこれとか、さっき床に置いてあった作品なんですけど、これも壁になるとこうなる(⑧→⑨参照)。

09)色葉を踏む2008 撮影:長塚秀人

これが本来の絵画に近い状態ですけど、まあ「本来の絵画」という言い方も厳密には言いにくいですが、壁に掛かっているということですね。絵画っぽく見えるというか。「絵画っぽい」。難しいなあ...絵画にはファーマットって無いので何とも言いようがないです。でもその言いようが無いことをやっているんですね。で、僕はその空間と絵画の兼ね合いみたいなものを常に意識して、関係性、「美しい関係性」に...「美しい」って使うこと自体が難しいらしいんですけど、「美しい関係性」にあるときに、やっぱり物はより美しく見えると思っていて、その関係性の中に「絵画」、絵画の中だけではなくその絵画自体がある「空間」とか、あと絵画の「パネル」という事実とかが絶対条件になってくると思うので、それをいちいち精査して、見せていきたいなと思っています。
僕は、なるべく自分の制作自体を言語化していきたいな、という思いはあるんですね。考えるのは言語だし、未来を見据えていく、制作を続けていくというのも言語の役割は大きいので。言語外のことをやるにしてもそれになるべく言語を付けていきたいなと思っています。僕にとって言語化するということは絵を描くためのツールの一つだと思っていて、道具なのであれば、それだけ取り出せるのか?取り出して使用や加工することも可能なのかと、ちょっと確認してみたいなと思い、今回このシンポジウムに参加させて頂くこととなりました。今回の事で、道具として錬磨できる部分があればやってみたいです。今回はそういう機会になるといいなと思っています。

大山
これらは比較的、最近の作品なのでしょうか?

内海
展示は最近ですね。これは去年の静岡の美術館での展示なんですけど、作ったのは2005−2006年ですね(⑨参照)。最初に作品を制作、発表する状況にあるときは、作品を展示する空間を考えて制作出来るのですが、出来上がった作品は作品として成立しているので、それが次の空間でどのような空間を得られるかということを探してゆくというのが僕のやり方です。なので、今映っている作品は旧作ですけど(⑨参照)、これはこの時新作でした(⑩参照)。 最初にこの空間に向けて、この状況を造る為に作成しましたが、それを超えてゆくとさっき途中で見せたように、こういうふうに得られた状況によって空間が変わってゆくということです(②参照)。

10)十方視野2008 撮影:長塚秀人


大山
一番最初に制作されるときに展示空間のことをある程度意識して作る。だけど、必ずしもその最初の空間だけに収まるものではなく、作品は作品として自律しているので、他の空間に後から入れても別の見え方として機能するということですね。

内海
そうですね。最初だけその空間に向かうことが出来ます。向かうことが出来るのであればそれは絵画制作の一要素になっていくので。要素としてあるのであれば、「考える」「考えない」という選択肢を作ることが出来るんです。「僕は100号の絵画しか描かない」という意識であれば、その100号の画面のみに向かうことは出来るけれど、その作品のある空間に向かうことも選択肢としてあるのであれば、それは単純に制作する為の要素が広がりますよね。それと、空間に展示をするときに、その空間自体を事前に自分の作品に向けて変えていくというのは意外に難しくて、よく人に説明する時に例を出すのは、「ここに柱が欲しい」とか「階段が欲しい」とか、「壁を抜いて」と言っても、条件によってはなかなかできないですよね。それと同時に自分の制作自体を急にこの空間に合わせて、僕は今、点の形状のタッチを使っていますけど、それを線にしたりとか、描写にしたりとかという風に変えていくのは困難なんですね。この要素の中で一番自由度が高いのはパネルのサイズとか、形とかなんです。パネルのサイズは市販の物では100号とか50号とか決まっている。既成の物があるけれど、「既成の物がある」という事実があるだけで、それが絵画というもの自体のサイズではないので、そこに幅を持たせると空間に対してアプローチしやすいんですね。あと、その100号とか50号とかそういうサイズと、自分自身との関係性が薄い。既成のものと、僕自身が既成のものを使う理由というのが希薄なので、だったら僕が展示をする場所と、僕が描く絵の具と空間との間にあるそのパネルの部分が最も自由度が高い。そう考えて、僕はアプローチをしているということです。

大山
絵画という作品の水準とそれを展示する空間の水準というのを混同して、例えば空間自体を作品化したり、絵画というメディアを突き抜けてその外側にアプローチすることを作品にするのではなく、作品と空間というものを分けつつもその関連性をその度に器用に考えていくということですね。そこはすごく制作者ならではの取り組み方かなという気がして、おもしろいなと思います。

池田
今、作品と空間のことを言われたけれど、点描にしているということはどういうことなんでしょう。イメージを使わずに、あるいは線でもなく、ドットにしているというのはどういうところから来ているんですか。

内海
いろいろあるんですけど...僕は絵の具が美しいと思っているんですね。「絵の具」という物自体が美しいから絵画が美しいんだ、と思っています。絵画の色や絵の具の色というのを、目が享受するときに、色の素材のマチエールも込みで人は見ているんですね。なので、色だけが浮いているのではなくて、実質的には使用している油絵の具自体。油絵の具の筆跡とか、にじみとか、かすれとか、そういうマチエールを込みで目に入ってきているので。自分が思うマチエールの一つとして、筆跡というのは個人的にかなり美しいものだと思っているんですね。で、その筆跡の種類のひとつとして4センチ程の丸(ドット)を使用しています。ドットは全部縦のタッチで描いています。ドットの中を見ると全部縦ラインですよね。この筆跡という単位としてのドットなので、丸だけど筆跡としての距離がありますよね。運筆のストロークが生まれるので。ストロークという単位でいちばん短いものとしての点なのかなと、僕の中では思ってやっています。

もう一つ、小さい点の作品があります。作品によってマチマチですが、大体5ミリ程のタッチです。この作品は、押しつぶした絵の具で描いている認識で描いています。これは綿棒で描画しているんですけれど、コーラとか、ビールとかの王冠を裏返しにしたような形、押しつぶした絵の具の形を重ねて描いているという認識です。タッチの中にはストロークはありませんが、混色はあります。ただこれも同じように、マチエール込みで色彩を観るというひとつの形として、押しつぶした絵の具の形が美しいと思ったので、それを見せる画面ということですね。それで単位として別のドットになる。

池田
なるほど。

大山
では、続いて雨宮庸介さんよろしくお願いします。

雨宮
はじめまして雨宮です。作品を作っている制作者です。まずはじめに、人が少ないので、忙しいとは言え、僕自身ちゃんと告知しなかった事を少し反省しています。

内海
(気持ちが)わかります。

雨宮
でも、僕も外でしゃべる機会というのはそんなに多くないし、せっかくいらしてくださっている方のために、ここでしかできない貴重な話が出来たら。来なかった人が後悔するような話ができればいいかなと思います(笑)。でもそもそも、僕の作品を今までにちゃんと見てくださった方はどのくらいいらっしゃいます? 少ないなー。少ないとちゃんと説明しないといけないですよね。司会の大山さんも内海君も言っていたけど、「制作についての言語」の話だけど、僕は現在、制作に対して言葉を発揮しなくてはいけないという気分はあまり無いんです。ただ僕は美術犬という団体を最近やり始めたりしているので、言っていることが違うじゃないかと思うかもしれないけれど、そこらへんが明らかじゃないからやっているというのが正確なところで...

池田
明らかじゃないというのは何のことでしょう?

雨宮
「制作についての言語」について何かを解明しなきゃいけないとか、何かの美術の言説が制作というレヴェルで、もっとたくさんなければ俺は生きてはいけないとかいうことでは全然無くて、僕にとってはそこはあまり死活問題ではないんですね。だから、「美術犬」の最初のシンポジウムのタイトルは「美術」という、普通シンポジウムをやる人からしたら完全にだめな設定のものにしました。要するにそんなことで繊細な議論やなにかしらの合意が得られるわけがない。でもじゃあなんで「美術」にしたかというと、僕らは美術家なわけ。美術家にとって「美術」とは、自分が考えなければならないギリギリの、最低ラインで、それ以上先、例えば「美術における何とかと何とかの歴史性における何とかについて」は僕は知らなくても良いし、わざわざ人前で言わなくても良いと思っている。ただ、シンプルに読んでも「美術家」って「美術」と「家」だから、美術抜いちゃうと家になっちゃうじゃん。困るでしょ?だから少なくとも「美術家」って単語の中に入っている「美術」ってことについては、一応態度は表明しなきゃいけない、っていう気分があったからシンポジウム「美術」を企画して、自分でも出た。だから、今回「制作の言語の制作」?あえて意地悪に言うと、あまりいらないんじゃないかとは思っているけど、ただ、実際に同年代の人間が何を考えているかというのは凄く興味があるし、あとは池田君は会ったのが2回目だし、内海君ともちゃんとしゃべったのは今日が2回目。前回のシンポジウムの時しかしゃべったことないし、ちゃんとお互いのことを知らないのね。だからそういう中で僕が思っている凄く大枠のこと、自分の制作に関して、言語がどこにあるのかな、ということくらいが最低限分かればいいかな、と思っていて、ここで素敵なことが言えるとは全く思っていない。それと、僕の作品って結構見ないと分かりにくい。映像にしても写真にしても見ないと分かりにくいので、変にしゃべると言い訳っぽく聞こえるのが嫌だなというのがあって、あまり見せたくないのだけど、それだけ知らない人がいるので見せることにします。

大山
いま雨宮さんが「素敵なことを言えるか分からない」とおっしゃいましたけど、決して合意が形成されるのが素敵ということではないと思っているので、そういう意味で違う形の素敵な言語がいくらでも形成されるんじゃないかという期待はあります。それでは映像のほうを。

雨宮
この映像は、2008年の展覧会の半分くらいが入っている展覧会記録のダイジェストです。すごく飛び飛びだけど、一応さらっと見てください。形式だけ簡単に説明すると、いわゆる映像インスタレーションみたいなものに属されることが多いかな。会場の中にいろいろな物がインスタレーションされていて、そこで撮られた映像が、同じ会場内に投影されて、鏡のような状態として同じ場所にある、という多重性を持った展示です。この後の映像にも出てくるんですけど、最近では、さらにその中でパフォーマンスのようなものをやるようなことが多くなってきて、これが何を意味するかという事にまで言い及ぶとかなり説明が面倒くさいことなので、まあ大体想像してください。

大山
では、設定としては現在と、映像の中は過去ですね?

雨宮
そうですね。ここでいう映像は近過去に位置しますね。明らかに、ライヴ中継でもない限りは現在ではないけど、ただ遠い現在でもない。遠い過去でもない。映像変わって、これはBOICE PLANNINGという僕も含めてやっているアーティスト・ラン・スペースがパフォーマンスの依頼を受けて公演したものです。秋葉原で開催されたアートフェアに呼ばれて、人をたくさん使って、人がしゃべるということを基本とし、それにまつわる行為が巡っていく作品です。これは2時間くらいのものを40秒くらいにまとめているから、全く意味が分からないと思うけど(笑)、観客がいる踊り場から見ると、上下に二つの箱みたいなものが見えて、そこでは別々のことが起こっている。片方ではひとりひとりが勝手に別々の話をしているんだけど、それ自体が全体で集団を成していて、で、またそれとはまた別の箱があって、それが基本的には無関係を保ちながらも、たまに混ざったりする。

大山
上から見ているような感じなんですか。

雨宮
踊り場から見て上と下。この作品は、赤坂アートフラワーという赤坂であったアートイベントの古い料亭を使った場所で、僕はその一室を与えられて展示をしました。基本的な構造は一緒で...映像が鏡写しになっていて、その場所が映っている。この時はしつらえたインスタレーションというものがほとんどなくて、空間だけをただ鏡写しにしています。では、そのぶん何が盛られているかというと身体性みたいなものが映像の中に多く定着されていると思います。これは現場にもともと在った掘りごたつの中で頭にリンゴを乗せながら、たまに疲れたりしつつ、9時間歩き続けるというのを、まあ9時間というのは、展示時間と実時間と一緒な状態で、展示の状態としてはループ無しで、とにかくずっと歩いているという。

池田
それは編集せずにずっと流しているんですか。

雨宮
そうそう。残念だね。これ9時間やっているのに編集されて50秒くらいでしたね(笑)。残りの8時間59分何秒も見て欲しいくらいなんだけど。これは去年ワンダーサイト渋谷でやった展覧会です。これは一日8時間の56日間をインスタレーションの一部として会場に僕自身が居続けて、行為をするという作品です。べつに長い時間それ自体を目的にしているんじゃなく、ただとにかく状態として、状態をキープするという目的で考えると単に時間が長くなっただけで、何日間籠もってますという「デットオアアライブ」な作品とはすごく大きく違うと思う。

撮影:雨宮庸介


大山
雨宮さん本人が空間の方に出てくるのはこれだけですか。他の作品は映像の中には出てくるけど...

雨宮
そうですね。始まりと終わりの時間があり、公演時間が決まっている所謂パフォーマンスというものに正しく分類されるものはいくつか手がけていますが、映像、インスタレーション、それに行為が加わっているものはこれのみです。ロッカーの中から急に出てきては話したり、リンゴ転がしたり、これ一個一個の行為それ自体には全く意味がないから、ただ映像とそれを含めてお客さん自体も完全に演劇の舞台の上にいる状態なので、それも素材として時として絡んでいくというような構造です。で、もう少しだけ説明すると、最初に言ったように僕はこういうわかりにくい話をすると家に帰ってから寝られないのであまりこういう話はしたくないのだけれど(笑)一応きっかけとして話すと、僕はすごく簡単に言うと、普段感じているような、すごくちっちゃな違和感みたいなものを具体的に観客と共有しながら進めていきたい、そういう想いが僕の展覧会作りの基礎にあると思います。なので、本来分離してしかるべきの、「展覧会」と「制作」という二つの状態が、「展覧会自体に制作がくい込んでいる」という状態をなしている。という特徴を帯びているという事になっているのではないかと思います。 非常に良い展覧会だった。(笑)笑わないように!

内海
今のこの空気は...笑えない...

大山
来たお客さんとも話されたりしているわけですよね。

雨宮
普通のこういう会話という形ではしていないかな。

大山
ではパフォーマンス的に、何かやったり...

雨宮
そう。僕はすごく自然に振る舞っているというか、何かあらかじめ決められた役をやっているわけではないです。ただどう考えてもこれが「普通」であるつもりもない。おかしいでしょ?(笑)あくまでも僕は「展覧会という構造の中でパフォーマンスみたいな事をしている人」っていう、その設定の中で自然な話し方で話をすることはありましたけど、ただ「おー、誰々さん」って言うような日常レベルの自然なことはやっていないです。

大山
例えば「なんでリンゴを転がしているんですか?」と聞かれたら、それに対しては普通に答えることはしたのでしょうか?

雨宮
無視したほうが良い場合は無視もするし、なんか、それはどうやって答えたか言いたくないな... (笑)

大山
というのも、お客さんに対する振る舞いがすごく重要かな、という気も少ししていて。

雨宮
たぶん重要だと思うし僕にとっても、たぶん今おっしゃられていることって、要するにこの展覧会の状態が「インタラクティヴ」なことなのかどうか、と言うことだと思うけど、僕個人的にはインタラクティヴアートと呼ばれているようなもの、メディアアートって言っても良いのかな? 敵増やしたくないけど、そんなもの無くなっちゃえばいいじゃんって思うくらいの気持ちなんです。正確に言うと、あってもいいんだけど、僕がやっていることと同じ名前で存在して欲しくないという感じです。というのも、あり方としては良いし、素材としてダメとは言ってないけど、基本的なアーティストの姿勢として、「インタラクティヴ」って言っちゃいけないような気がしているんだよね。そこの部分、インターアクトするというか、そこの部分についての人間の可能性の話をしなくちゃならないのが美術だと思うから、「これインタラクティヴアートでして」「ここを押すとこうなります」「ほら、つながってるでしょ?」、と示された時点で、死んで下さい、って思うのね俺。まあカットしてくれても良いですよ今の。友達にもそういうアーティストいるから...。

まあ、でも本当にそういう感じで、僕はそういう線にはならないんだけど、でもそういう形式に見えかねない事もやっているから、そこに関しては凄く気をつけています。

大山
確かに、お客さんとインタラクトすること自体を作品としてあらかじめ準備しちゃうと、そこのコミュニケーションってどうなんだろうという問題は常にあるとは思います。そういう意味で、雨宮さんの作品はお客さんに対して全く距離を取って断絶しているわけでもないだろうし、だからといって「あーどうもこんにちは」みたいな感じでも当然ない。そこら辺の微妙なお客さんとの関係性というのはひとつ重要なところなのかなと。

雨宮
あまり主題とは思っていないんだけど、「観客」について、基本的にはそこは考えずに、僕が作りたい作品を作っているわけじゃないですか。とはいえ、その作りたいこと、やりたいことをやるために、「観客」について考えなしでやって良いものだとは思ってないので、一応責任として考えるというのはあると思う。だから、誰一人来ない展覧会に関して作れって言われたときがすごく難しいかもしれない。

大山
なるほど。

雨宮
これは府中市美術館での展覧会で、これ参考映像しかないんだけど、さっき入り口みたいなのが映っていたんだけど、これまでの作品だったら、この一部屋と一つの画面ていう関係を、5つの部屋を作って5つの関係があるという構造です。それが実際に2階があったりとか隣の部屋があったりとかという感じで、いつも作っている一対一の関係が増殖していく。一対一の関係でも十分複雑なのに、それ自体が複数になった場合、人はどのような思考をもってその複雑さに対峙するんだろう、という興味を元につくりました。このときは5つでしたがもし30個作れるんだったら30個作っても良いって思っていたような展示です。基調報告になったかな。何かありますか。

大山
この間内海さんと少しおしゃべりして「お客さんにどう見られるかということをどの程度意識しているんですか?」というのを僕が個人的に聞いたときに「作家としてはそこまでは手を出せない。作品でいいものを作ってそれを良く展示するところまでは作家の仕事の範囲だけど、それがどう見られるかというのは回収するべきではない」というようなことをおっしゃっていた。それが今雨宮さんが観客との関係性で言われていたこととも繋がるのかな、という気がします。

内海
自分と他者には当然隔たりがあって、見る人の感覚は考えられない。こうしたらこう思うんじゃないかっていうのはもちろん想定しきれないから考えてはいけないと思っているけれど、ただ空間に合わせて作品を置くときに、例えばその空間が右から入る空間か、作品に対して正面から入る空間かによって、その構図とかは変わる余地があるかと思っています。だから、その前段階のアプローチは当然する、というかできる可能性がある、ということですよね。できあがってしまったものに対しての作為はやりようがないと思ってます。僕の場合。

雨宮
それは似てる、ということですか。

大山
観客との関係性に関してどこまで作家として意識的であるかというときに、インタラクティヴアートは観客とのコミュニケーション自体を主題化して、例えばメディアアートだったら観客がボタンを押すとこうなってとか、要するに観客が能動的に参加することをある意味「要請」している。ただ、要請されてその作品のルールに従って観客が振る舞っている時点で、それは作品の制度の中でしかあり得ないコミュニケーションだし、そういうやり方で観客との関係を取り結ぶというのは、作家としてもしかしたら不誠実なのかもしれない。

雨宮
そういうものがあっても良いと思うんだけど、美術でやる必要はないかなというのはすごく思います。それは多分ワークショップとかにもそういう事は存在していて、美術がやる必要ないことをいくつか美術がやってることはあるな、という風には思います。

大山
なるほど。いずれにせよ、お二方ともそこが別に作品の主眼というわけではないのでしょう。では、続いて池田剛介さんのほうに基調報告をお願いします。

池田
お越しいただいてありがとうございます。さっき大山さんも言われたけれども、制作者のわりには、文章を書いたりレクチャーなどで話したりということもやってきていて、批評家のような人たちと一緒に話したりすることの方が多いんですね。なので今日は、わりに変則的な感じで、むしろ普段やらないような実制作の話をできればいいのかな、というふうには思っています。

たまたまこの1ヶ月くらい翻訳のバイトをやっていて、長時間PCに向かって作業をすることになるのですが、いつになくネットに繋がっている時間が長くなってしまう。で、疲れたからYouTubeを見てみたり、ニコニコ動画やpixivなんかを見たりしていると、ある種の「制作のようなこと」が行われていたりするわけですね。なにか面白いことのようにも思えるし、そうでもないような気もします。あるいはニュースサイトでも、マイケル・ジャクソンやピナ・バウシュが死んだり、あるいは、たまたま僕が何度か書いたことがある「STUDIO VOICE」という雑誌が休刊になることが決まったりとかいうこともある。僕の意識としてはこれまで、まだ世界が20世紀末のパラダイムの中で動いている、という実感があった。しかし、ここへきてようやく80年代90年代、そこから連なる20世紀末というのが一気に切断されようとしているかのような感覚を覚えるわけです。ネットをはじめとする新たな情報環境の始まりと、20世紀のさまざまな終わりが一気に押し寄せてきているような、わりに大変な感じがあって、自分を取り巻く世界の変化を強く感じています。

一方で、作品の制作に関わるというときには、ものすごく個人的なモチベーションで制作を進めていくしかない感じがしていて、なにかそうした周りの出来事に反応する自分と、全くそうでない自分がいて、どうもそれぞれが乖離したような形で複数の自己が作動しているような感覚すらあるんですね。今回はそうした、制作者としてどういうことをやっているのか、ということについて考えていければと思います。

制作を続けてきて最近感じるのは、なんだか知らないけれど自分が絵画というモチーフの周りを巡りめぐっている、ということです。金魚や蝶、木の葉といったモチーフの型を作って、透明な樹脂を成型し、平面上に投入していく最近の作品にしても、あるいは、そのシリーズの別の方向では、刷毛でストロークを描くように鏡を裏側から部分的に削り取って、鏡面が部分的にはがれ落ちた鏡を白いキャンバスと一体化させることで絵画的な平面を構成していたり。内海さんがやるような感じで、いわゆる絵画のスタンダードな文法、つまりキャンバスの上に粘性のある絵の具が触れ、それが硬化した痕跡の集まりとして絵画が完成する、といった基本的な手続きを迂回しながら、にもかかわらず絵画へと向かうような方向を模索しているといえるかもしれません。

それで今回、作家同士で話すというときに思い返していたのが、ちょうど1年くらい前に「ヴィヴィッド・マテリアル」という展覧会を批評家の粟田大輔さんが企画してやっていて僕も出していたのですが、その延長線上で『美術手帖』(2008年7月号)で座談会をやったんですね。その時のキーワードが、やはり素材とか現象とかそういうことだった。僕も最初は、まあそれでいいかなあと思い話していたんですが、どうもちょっとその座談会に違和感があった。なんとなく造形vs非造形、マテリアルvsオブジェクト、というような非常に単純な話にしかならず、ちょっと残念だったんですね。マテリアルということをヒントにいろんなことを考えていくことができるとは思うのですが、ちょっともうすこし別の角度から自分たちが行っている制作のリアリティを捉えるような言葉を練り上げることはできないものか、と考えたことがあります。

そういったことも踏まえて『絵画を再起動する』のときにも少し触れたんだけれど、「翻訳」ということを考えていて。70年代以降、美術がジャンルの枠組みをぶっ壊しながら、どんどん解体方向に進んできたという経緯があるんですね。絵画や彫刻、工芸や写真とか、そういうジャンル的な区分が次々に解体されてゆき、今のビエンナーレとかトリエンナーレとかで実感できると思うけれど、「何でもあり」みたいな状況になっている。制作上の様々な言語が全て現代美術という地平の上で、フラットに横並びになっているような状況。絵画でもいいし、彫刻でもいいし、あるいはアニメーションや映像、パフォーマンスでもいいし、インタラクティヴアートでも何でもいいですよといった感じ。その時に、いわゆる近代型の思考方法でいうと、ある作品がその表現形式をどれだけアップデートできているか、というような方向性で、作品の革新性というものが捉えられていた。しかし、いまやそういう方向ではもう可能性がないというか、面白いことができそうにない。そういうときに、現代美術の文法として与えられている条件の雑多性を、あえてポジティブに使っていくような方向で制作をドライブさせることができないかなと思っているわけです。

金魚にせよ木の葉にせよ、それらを樹脂で作った後に、あたかもそれが絵画におけるブラッシュストローク(筆致)のようなものとして平面上に置いていくのですが、個々のユニットとして、既に小さな彫刻的形象=フィギュアをもったものとして扱いながら、同時にそれが、個別性を放ちつつも一つの色彩平面として立ち上がるような、相矛盾する感覚が同時的に成立するような「状態」をつくりたいと思っています。それはおそらく普通の意味での「絵画的」な作品でないかもしれないし、「彫刻的」な作品でもないかもしれない。むしろ「絵画的でもなく彫刻的でもない」そういう二重にネガティブな条件によって導かれる、ある種の違和感を伴ってくるようなリアリティみたいな状態をなんとか結晶化したいと思ってます。

さきほどアルバイトで翻訳をやっていると言いましたが、基本的にどう考えても無理な作業なわけですね。日本語と英語なんていうのはそれぞれ全く別の構造を持っているわけですし。建築と絵画というシステムがそれぞれ別の歴史と構造を持っている、というくらいに違う。僕はそもそも帰国子女として自然に英語を話せたわけでなく、後天的に学ぶことで自分に英語というシステムをインストールしている。翻訳するとき、一般によいと言われるのは、一方の言語の意図をくみ取って、それを他方の構造の中にナチュラルに組み直していくような——「起点派」に対する「目標派」とも呼ばれるのですが——そういうのが基本的に「良い」翻訳と考えられています。しかしベンヤミンという哲学者が「翻訳者の使命」というテキストの中で、翻訳について面白いことを言っていて。つまり目標派的に元の言語の意味内容に基づいて、別の言語の自然に移すようなのはダメなんだ、と。むしろ言語構造をそのまま逐語訳してしまえ、と。大ざっぱには、そういうようなことを言っている。それによって移し替えられた言語が、なにか新たな形でねじれていく。でもそれは、必ずしもデタラメに訳せばよいということでもなくて、むしろ構造の細部にわたってまできっちりとトレースしながら、別のシステムのなかに置かれるからこそ、なにか必然的に結びつきを持ちながらも、ある種いびつな違和感を孕むことで、言語を新たに更新してゆく、そのようなヴィジョンだというふうに理解したい。

そういったところにインスパイアを受けつつ、単一言語としての一つのメディアをひたすら磨いてゆくというモダニズムでもなく、かといってなんでもありの諸言語がバラバラなまま散在しているという今の現在美術の状況にそのまま乗っかってしまう、という方向でもない形。複数の言語がもたらすテンションの間で、なにか新しい言語を紡いでいくような、そういった方向性を考えてみたい、そんな風に考えているところです。とりあえず僕からはこの程度にして、後の議論の素材とできればと思います。

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