■瞬間と持続、ナルシシズムをねじる
池田
ここまでいろいろなものを駆け抜けながら話をしてきたと思うのだけれど、絵画というジャンルをもう一度考える時に、ひとつちょっと言及しておきたい問題として、レッシングのラオコーン論というのが想定されると思うのですね。で、その議論というのは、ラオコーンが蛇に絡まれて苦しんでいる姿を彫刻で描く時にどういう表現をとっているかというと、苦しみが頂点に達する一歩手前でそれを止めておくと。要するに、文学とか演劇とかであれば、時間の中で表現できるので、その苦しみっていうのを表現する時に絶頂の状態というのを表現し続けることができるわけだけれど、絵画や彫刻は、時間的な表現に対して空間的な表現であるとレッシングは規定する。で、ラオコーンの彫刻っていうのは苦しみに到達する一歩手前を描くんだと。要するに、苦しみそのものを彫刻化してしまうと単に滑稽なものになってしまう。むしろその一歩手前の崇高性みたいなところでとどめるのが重要なんだ、という話で、それをグリーンバーグは「新たなラオコーンのために」で引き継いで、絵画というジャンルの特性を議論する上での根拠とする。
つまり出来事の手前とか瞬間性というレッシング/グリーンバーグ的なパラダイムというのが一方にあって、しかしそういったラオコーンとも近いような情念の表現というのを別様に解釈している人がヴァールブルクですね。ヴァールブルクは『蛇儀礼』のなかでラオコーン群像の彫刻をとりあげてギリシア美術における悲劇的な象徴と考えるわけですが、同時にそのような蛇に巻き付かれるイメージをプエブロ=インディアンによる儀礼の中から引き出していたり、キリスト教美術の中に関連するイメージを見いだしたりしています。こういった文脈からは少しずれますが、ヴァールブルクは情念定型ということを言っていて、苦しみの表現のような情念が立ち上がるその時に、ある種の形式性が歴史的に反復されているんだ、と。瞬間性や絶頂の一歩手前で凝固するような情念の像が一方であって、しかし他方で、シミュラークルになってどんどん横滑りしていく、歴史の中で反復されて顔を出していくような情念の反復可能性が他方で考えられるわけです。
千葉
そうですね。今の話には、グリーンバーグとロザリンド・クラウスの対立もつながりますよね。速さの眼差しと遅さの眼差しというふうに言ってもいいかもしれないけれど、グリーンバーグ的なモダニズムにおいて視覚は瞬間的なものであるというイデオロギーがあって、その瞬間性においてバッと把握される出来事、一撃の出来事というのが問題なわけです。それに対してグリーンバーグ以降の美術批評の一つのメジャーな流れをつくったクラウスによれば、絵画面というのは複数の層、歴史的な層から成り立っていて、しかもそれが異なった時間や異なった歴史のミクスチャーとして成立している。そこの様々なずれを読解するということをクラウスはやっているわけです。これは明らかにヴァールブルクの仕事からつながっている。ヴァールブルク的な眼差しで見るならば、どんな作品であれそこに含まれている情念定型はいくつかあったりするわけで、それが奇妙な時間性において混在している、まったく違う時空のものが入っている──ある種のアナクロニズム(錯時性)を持っているというわけですよね。そういうアナクロニズムにおいて成立している奇妙な、どの時間でもないようなものが、出来事の手前の時間、あるいは複数の出来事の間に挟まれた時間としてある。ただ、ひとつ問題だなと思うのは、クラウス的な見方というのは──ヴァールブルクは狂っていたけれど(笑)──とてもラディカルだと思うけれど、それを上品にやってしまうと、ネガティヴな地平線みたいなものが存在論的にどこか顔をのぞかせるような気がする。ずれ続けている痕跡っていうものが──さっきの存在論的ファシズムの話じゃないけれど──乗っかっているプランが想定されかねないところがあるんですよ。そういうプランに頼らずに、複数のアナクロニックなズレの中に身を置くことをどれだけシリアスにできるか、上品にイデオロギー化せずにできるか、それが難しいんだけれど、本当にシリアスにやったらヤバいんだよなあ(笑)。
池田
クラウスは、グリーンバーグ的な――というかマイケル・フリードなんかによって単純化されたグリーンバーグ主義とよぶべきでしょうが――瞬間性に対して、時間的な持続の中に開いていく。その時に、例えばジャコメッティの『吊られた球』のようなモチーフを出しています。
クラウスによれば、これはセックスのシーンだと。この三日月状のものが男性器で、女性器を傷つけているように見えるし、同時にこの球の方が男性になって三日月状の上に乗っているようにも見える。まあ、この両者が交互に図と地の関係を交換しながらチカチカと明滅し続ける、みたいなね。それが時間性の中での作品経験に繋がっていくと。でもそれって結局、バタイユ的な二極の中にバッと引き裂かれていくような、サディスティックなモデルにも近い。
しかし同時にクラウスはもう一つ別のものを持っていたのかな、という気はしていて。デュシャンのロトレリーフに対してわりと似たような分析をするのだけれども、ロトレリーフを回転させると図と地が常にグルグルと溶解し続ける。チカチカした明滅モデルではなくて、ねじれて溶け合うかのように回転しながら、向こうとこちら側との間で振幅運動を続けていく、という話をする。僕はむしろ『ダークナイト』のジョーカーとバットマンの半回転にこちらのモメントをみたいという気がするんですよ。半回転というのが、善と悪の二者の中の鏡像状態を成立させるだけでなく、同時に、しかし実際に半回転のねじれがそこに入っていて、完全に溶けあうことなく混ざりあい続ける。それこそゴッサムシティの中でサーキット上での追いかけっこをし続けるような運動性として読みたい。
そもそもあのシーンは映画的というよりは、非常に正面性の強い、絵画的なシーンだと思います。バットマンとジョーカーは半回転を通じて向かい合い、観客の視線もその交換的なナルシシスティックな往復の中に巻き込まれていく。巻き込まれていくのだけれども、同時にそこには非常に物理的なレベルの半回転が差し挟まれていて、その反転構造を横にねじりながらデュシャンのロトレリーフのように持続していく時間を作っている気がするんです。ギリギリまでナルシシズムに触れながら、しかし水仙になって静止してしまうのでなく、その静止から逃れ続けるような可能性。これは、おそらく映画よりも絵画や美術の方に可能性があるんじゃないかと思います。
千葉
なるほど。そうすると、あの半回転によって鏡像関係に入るというよりも、鏡像関係を脱構築するようなモメントとしてあの半回転を見たいということかな。
池田
そうですね。しかし、その半回転がさらなる回転状態を生むかは、まあ微妙なところというか。その可能性は『メメント』のなかで、断片的には示されていたのかもしれない。奥さんを殺した相手に復讐するという典型的なトラウマとその回復の物語が、唯物論的な記憶の切断によって破砕されていく。
千葉
そうなんですよね、下手すると鏡像的関係の設立と共犯関係になって終わりっていうこともありうるわけなので。だからナルシシズムを内的に打ち砕くような半回転の可能性っていうのかな、そういうものが必要だっていうことですよね。
池田
まあ、その可能性が端的に表れているとすれば、ジョーカーがナースにコスプレしているシーンっていうのがあって。ほとんどジョーカーが脱領土化している(笑)。で、この横に寝ているトゥーフェイス(Two-Face)っていうのはバットマンの有名なキャラクターだけど、まさに善と悪の一体化っていうのを見たまんま示していて、結局トゥーフェイスは落下して死んじゃうんですね。
善と悪が鏡像関係になってナルシシスティックに一体化するところにおいて墜落するっていうのがトゥーフェイス的であるとすれば、いわばジョーカーとバットマンは二者が互いに円環をなしながら追いかけ続ける運動状態において、かろうじて反復の運動性の中に開かれている。だから二極が一致してはダメ。ナルシシズムの視線を巻き込みながら、しかし小さな自己充足を内在的にねじって、旋回する運動状態に開いていくようなギリギリの可能性。最初の千葉さんのマゾヒズムの話ともつながりますが、このあたりは絵画なんかで狙えるところではないかと思っています。
■質疑応答
大山
では、質疑応答に入りましょう。内容に関してでもそれ以外でも、何かお二方に聞きたいことがある方はぜひご質問を。
質問者1
YouTubeやオタクカルチャーなどにおいてキャラがどんどん自由に変化していくけれど、その時にキャラクターそのものを変革するまでには至っていない、表面的な変化はあるけれどその本質的なものを突き詰めたクリエイションはないんじゃないかという話がありました。インターネットの中でキャラを変革していくことに没頭しているようなオタクと言われている人たちやその表現方法が、なぜ今の日本の現代社会にフィットしてきているのか。僕としては、一つにはコンプレックスがあると思うのですね。村上隆さんがコンプレックスということをよく言っていて、あと、渋谷の街と秋葉原の街の根本的な違いというのを言っている人がいて、自分の存在を表にどんどん出していくのか、それとも内側にどんどんこもっていってしまうのか、そういうのが街のつくりにも表れてきているとことを言っていて。
池田
森川嘉一郎さんですね。渋谷はショーウィンドウが沢山あって外側に開かれている。対して秋葉原の建物はだいたいどれも雑居ビルで窓もなく閉じられている、というような議論。
質問者1
それで、話が少しそれるかもしれませんが、美術っていうのはヴィジュアルコミュニケーションじゃないですか。なんとなく思ったのが、美しいっていう価値観そのものってある意味、排他的という攻撃的というか…それで、人がコミュニケーションする時に外観で判断してしまうことがありますよね。そう考えると、美しいものに対するプレッシャーというのが今の日本で凄く大きくて、オタクカルチャー的なものに魅かれる人たちが多いのかなっていう気がするんですけれど。
千葉
そうですね、セクシュアリティの問題に関しては──絵画の話からは離れるのですが──、僕はフロイトの精神分析からは距離を取っています。もともと持っていた性的本能が経験によって変形されていくという見方はフロイト的なものです。この場合、どんなに様々にセクシュアリティが構築され変容しようとも、私の人生という一つのストーリーが幼少期から現在に向かって一貫しているということが大前提になっている。これはすごく当り前の大前提ですが、僕のような哲学的立場からすると、その前提を疑ってみたいんですよ。私っていう人生を成立させているストーリーが、途中で中断されたり分岐したりする可能性があるっていうことを考えたいんですね。セクシュアリティの多様性っていうのも、複数の束みたいなものとして自分の来歴を考えて、その中で成立したりしなかったりするものとして捉えるんです。
フロイトの精神分析は、初期の段階に私のトラウマというのを想定して、そのトラウマがその後の人生に大きな影響を与えるって考えるんだけど、僕の場合は、トラウマっていうのは一回的、決定的に起こるものではなくて、今こうしている最中にも、ありとあらゆる段階においてトラウマ的なものが生に介入しているって考えるんですね。つまり、トラウマの複数性というのを考えるんですよ。そして、その様々な複数のトラウマに応答しつつ我々の主体というのは変形し、あるいは分裂したと思ったらそれが凝集されるというプロセスを繰り返して、セクシュアリティのみならず、実存の様々なアスペクトを変形させていくというふうに考えているんです。そう考えた場合に、オタク的なセクシュアリティのあり方っていうのも、そういったものの一つの帰結として捉えられる。だから、単純にフロイト精神分析的な一つのトラウマがあって、それに基づいてオタク的なセクシュアリティが成立しているっていう話にしてしまうと、あまり面白くないなと思うんですよね。
様々な歴史性のネットワークにおけるセクシュアリティ形成──しかし、様々なネットワークというと色んな可能性があってハッピーな感じに聞こえるけどそうではなくて、様々な傷のネットワークということを僕は強調したいんです。我々の置かれている実存のありとあらゆる諸関係というのは、とにかくトラウマティックなものであるっていうふうに考えるんですね。そういうありとあらゆる方向からのポリトラウマティズム(多傷性)の中でオタク的なセクシュアリティも、またそれのみならず他のセクシュアリティの可能性も捉えたいなということになる。まあそれが、ちょっと込み入った話ですけど、とりあえず僕の答えです。
池田
美の排他性についてはどうですか?
千葉
美の排他性については、カントにまでさかのぼるべき話ですね。カントは『判断力批判』の中で美の普遍妥当性の問題の話をしていて、美というのは主観的判断であるにも関わらず、それが普遍的妥当性を持つのはなぜかということを問う。これは奇妙な立問で、やはりカントは、大前提として、美というのは普遍性をもちうると思っていたわけです。ニーチェみたいに、様々な価値観や政治性によって擬制されているものとは多分考えなかったんでしょうね。
池田
例えば「京都の紅葉がきれい」とか。そういうのは、どんな客観性にも基づかない個人の趣味判断に過ぎないわけですよね。にもかかわらず、それが多くの人々に共有されているのはなぜか、という時にカントはコモンセンス(共通感覚)なるものを想定する、と。要は私の単なる個人的な「京都の紅葉が美しい」というその判断が「美しいでしょ?」という同意を他者に要求していて、それが一定レベルで共有されている時にコモンセンスが作り上げられる。しかしそれはその基準からこぼれ落ちるものを排除することにもなるし、裏を返せば近代型のアヴァンギャルドのプロジェクトというのはこういうコモンセンスをひたすら突き破っていくところで成立していたわけだけど、しかし、今の美術の困難さはあまりにも多様な美を多文化主義的に認めたあげく、どこにも美に関するコモンセンスが成立しなくなっちゃったところともいえる。
千葉
そうですね。だから、ニーチェ的に言ってしまえば、ありとあらゆる価値というのはポリティクスに基づいているということになるわけで、美の暴力性、あるものが美しいっていうことの暴力性というのはどうしたってあると言わざるをえないけれど。しかし他方で、脳科学の話とかし始めると厄介ですよね。現代においては、ごくマテリアルなレベルで、大多数の人間と呼ばれる種が、特定の表象に対して美しいと反応するとかしないとか、そういう研究は目下進行中なのかもしれないけれど。
池田
クオリアとかもあるし(笑)。
千葉
だからそのレベルの話と、ポリティカルな条件付けっていうのかな、まあどっちも働いているんでしょうね。
池田
でもまあ、脳科学みたいなものも、まさにポリティカルに編成されかねない…
千葉
それもポリティカルに編成されるんだよ。
池田
それは結局、この私の感覚を絶対的に肯定するっていう、ものすごく反動的な話になっちゃう危険性があるからね。
千葉
だいたい脳科学が想定するような標準的な人間のモデルを設定するっていうこと自体がものすごく強烈なポリティクスなわけで。そこからずれた人とか、ある種の色が認識できない人とかどうなるんだっていう話になると、それは標準からの偏差ですといって処理して、それが自然科学ではまかり通るわけでしょう。とんでもない暴力ですよね。だから、そういう暴力が働いているんだということも含めて科学を捉えなければいけないというのは、当然のことだと思いますね。
大山
さきほどの話ですが、美の基準というのが様々にあって、そこから排他的に除外される時に生まれるトラウマのありかたも、おそらく様々であると。
千葉
そう、それで渋谷とアキバが対立したりとかでしょう。
大山
だから、最近の日本人の若者の単一のコンプレックス、村上隆に象徴されるようなコンプレックスみたいなものがあって、そこにオタクカルチャーの成立条件があるっていうのはちょっと違うのではないかと思います。
千葉
あと、渋谷対アキバという構図はすごく粗雑ですよね。本当に粗雑だと思う。やっぱりそれはオタク弁護なんだと思うんですよ。渋谷の連中は開かれていてハッピーでいいよね、俺たちは閉じこもっているけど、でもこれだけすごい生産物つくっているんだぜ、みたいなさ。でも渋谷カルチャーというのも、実はすごく複数的であるということは大事で、あるコンプレックスやトラウマティックなものをそれぞれのトライブがもっているというのはそうだと思うのだけれど、それを開かれたトライブと開かれていないトライブの間ですぐに対立関係にするのは間違っていると思うんですよ。
例えば渋谷のギャル・ギャル男文化というのを考えてみても、あれなんか非常に閉じられたトライブで、ギャル男服をメインに扱っている109パート2の5階あたりなんて閉じられた空間で全然ショーウィンドウに開かれているわけではないんですよ。そこに渋谷におけるアキバ的トライブとすら言っていいような者たちが集っていたりするわけで、だから渋谷の開かれたショーウィンドウは、いわゆる普通にオシャレな人たちは行くかもしれないけれど、そういうものを標準として措定して、それをアキバと対立させる事自体がもうどうしようもなく粗雑なポリティクスですよね。
池田
そこは日本で唯一のegg系批評家としては、ぜひ押しておいて欲しいところだと思います(笑)。
千葉
押したいですよ(笑)。あとはどうでしょうね?
大山
何か他に質問がある方いらっしゃいますか?
池田
僕が聞きたい方がいるのですが、画家の内海聖史さんに来ていただいていて。内海さんがされている作品の展開というのは面白くて、というのも最初は普通のサイズで描いていた絵画が、やがて凄く大きくなって空間全体を覆うようなものに展開していく。絵画がインスタレーション化していくっていうか。同時にそれが、最近だと、また凄く小さな単位に分割されてインスタレーション状に構成されていて、それってまさに絵画がインスタレーションであり、同時にインスタレーションが絵画である、というような横断的な状態を持っているとも思えるんです。そういう意味では、さっき言った翻訳性というところで考えることも可能なのかな、とも思っているんですけれど。
内海
絵画は絵画のみで成立していないと僕は考えています。インスタレーションという言葉自体と絵画っていうもの自体は、そのものを認識する分岐点がもう違うのだと考えているんですね。例えば絵画というものが、生物で言ったら「人間」だとしたら、インスタレーションっていうのはもっと上の「哺乳類」とか、上位の言葉だと思っていて。だから同じフィールドで両立するものではないと考えてます。例えばインスタレーションの素材で石とか鉄とか、糸でもなんでもあると思うのですが、インスタレーションという言葉上では、絵画は石とか糸とかと同じ位置に来ちゃうんじゃいかなと思っています。なので、別の考えをすることができるんじゃないかと。
さっきの分割する、ものごとを分けていくっていうことから考えると、絵画とインスタレーションできるっていう要素とを僕は分割して考えていて、その分割したところからまた絵画に戻っていくと色々な展開が、例えば10メーター以上の絵画であったり、一つの
空間に1000以上の絵を置いたりとか、そういう絵画の外にある空間への展開が可能になってくるんじゃないかなと思っています。
池田
インスタレーションという枠組みが絵画を含んでいる、ということですね。絵画が設置されるっていう事自体が、ある種のインスタレーション性を持たざるをえないだろう、と。
内海
僕はそのことを説明するのに、例えば手のひらが絵だとしたら、手が壁にくっついていたら絵は見えないわけですよね。絵が見えていたら、絵の前に空間があるっていうことが絶対条件なので、絶対条件の一つとして空間というものが存在しうるっていうことなんです
ね。だから絵画のレベルとインスタレーションのレベルは別にするっていうのが僕の考え方ですね。
千葉
インスタレーションという言葉はご自身では使われるんですか?
内海
難しいですね。制作の時には「空間に即する」という言い方をしていますね。ややこしくなってきますので。インスタレーションという言葉自体は人それぞれ使いだすと分かり難いというか、個人間の齟齬が大きすぎるので。あとサイトスペシフィックとか、そういう言葉も使いだすと人それぞれ認識が違い過ぎて。だから、僕は「空間に即する」という言い方をしていますね。そうすれば僕個人のものになってくるので。
大山
何か他に質問がある方いらっしゃいますか?
質問者2
ドゥルーズの話があって、主体が更新されていくということを言われたと思うのですが、そういう更新されていくっていうことがわかるためには、外に立っているというか、他に固定されているものがあってそこから見れば更新されているとか、つまり中に入っていたらその更新は測定できないような気がするのですが。
千葉
外に立っている視点がないと更新していることがわからない、と?
質問者2
更新されていないじゃないですか、外に立っているということは。何というか、固定されているものが前提となって初めてできる議論というか。
千葉
そうですか?例えば、私の感覚が別の感覚に変わっていくということを、感覚の変容のただ中で感覚することはできませんか。観察者のようなものが必要だということでしょうか。
私の感覚と言っても、私の感覚が変わっている時には、私というものは変わっていなくて、その私に属している感覚が変わっていることを、変わっていないところの私が感覚するっていう、まあそういうことになりそうですよね。つまり、私の同一性があるからこそ、私の感覚の変容ってのもわかると。そういう立場もあるでしょう。しかしドゥルーズは、生成変化する、becomingする、変わるっていうことを言うんですけれど、それは、私の同一性を保った上で何か私の一部が変わるっていうことを言おうとしているのではなくて、私っていうものの連続性それ自体が変わってしまうようなことを言おうとしているんですよ。その場合、恐らく私が変わったということはわからないでしょう。私が変わっている時には。というのも、変わった時にはもう違う私になっていて、リスタートしているわけなので。ただ、全くの白紙に戻ってリスタートするということではなくて、既にある積み重ねの上で別のものに変わっていくわけだけれど、基準点というのは同じではなくなってしまうでしょうね。だから、変わったことがわかるかわからないかっていう、その意味でのわかるっていうのは、ある立脚点から見て、ある種客観的にわかるっていうことだと思うんだけれど、そういう客観性でわかるっていう次元はドゥルーズ的な変化のプロセスにおいては崩壊してしまうって言ってよいと思います。
質問者2
変わっていく、更新していくという世界観は好きなんですけど、それを監督しちゃってるっていうことは、その時点で変わっていない気もする。そういう世界になったと思った時点で、そういう世界になっていないじゃないですか。
千葉
いや、そのパラドクスにおいてその世界になっているんですよ。なっていないと思うことと、実際になっていることの間は矛盾するんですけれど。まあ、単純に言っちゃえば、ドゥルーズ的なヴィジョンで今僕はこうしている間にもひたすら生成を続けているので、僕は僕であり続けていますが、しかし別のものに同時になり続けているので、そのことは矛盾していますが、しかし変化しているということはリアルです。
ドゥルーズならそれを認識する必要はないと言うと思います、多分。それを認識しようとすることは変化することに対しての抵抗になってしまうんですよ。奇妙な逆説で、変化するということをはっきり認識しようと思うほどに、変化できなくなっちゃうんです。だから、変化がリアルに起こる時にはむしろその認識というのはないわけですよ。むしろ同じ状態に留まっているように感じるくらいなわけです。
大山
例えば自転車に乗っている時などは、自転車をこいでいることを意識しないわけですよね。そういう感覚に近いのでしょうか?
千葉
良い例えじゃないですか。あるプロセスが進行している時には、必ずしもそのプロセスを客観化する自己意識が伴うとは限らないということです。
池田
あえて間違った例としてあげるとね、例えばAKB48とかはメンバーが変わっていったりとかしうるわけじゃないですか。10年ぐらい続いたとしたら、おそらくだれも元のメンバーは残っていないでしょう。にもかかわらずAKB48っていうフレームは残るかも知れない(笑)。
千葉
ただ、ちょっと難しいところでもあるんですよね。変化し続けているけれど変わらないんだ、みたいな話をあんまり安易に言ってしまうと、とっても保守的になりかねないし、それこそ、一つの統一体の中で部分は入れ替わっても統一体はあり続けるというのは、ファシズムの論理そのものですからね。だから、そういう方向に理解されてしまうとちょっと危うい議論でもあって。
池田
いや、そのとおりで。少しまじめな例をだすと、『彼自身によるロラン・バルト』のなかでバルトが仕事机について書いていて。パリの自宅と田舎の仕事場の両方ともに机があって、それは全く別の場所にある。で、机の上のものの配置は自宅のものと田舎のものとで全く同じになっていて、それを同一のものとして考えよう、と。『スカイ・クロラ』のキルドレみたいなもので、人々が退屈しないように表層的に戦争をやっていて、そこに参加しているキルドレは若いまま年をとらない。そいつが死ぬと、似たような人物が同じ場所に投入されるが、戦争も、もちろんそれをテレビで消費する世界の側も、そのまま残り続ける。表層だけがその都度新しくなっていくかのように見えるわけです。これはほとんど最近の美術の状況そのものとも言える(笑)。
美術を編成するアーキテクチャは変わらずに、しかし個々の事物としての作品、作家は交換可能なものとしてすぐに消費されていくような、そういうヴィジョンにもなりかねない。むしろ重要なのは、作品が既存のシステムのテーブルの上に載る、つまり既存の価値体系の中で評価される、なんていうことではなくて、真に重要な作品はテーブル上の体系そのものを常に新たな形で編成しなおしていくわけです。そこでしか作品は時間性を獲得しえない。さらにいえば、所与のテーブルの上でそのような組み替えが行われるというよりは、むしろ組み替え作業のアクチュアリティにおいて、その都度新たな内在的な平面が生み出されると考えた方がいい。作家としては、その複数の平面の連なりが生み出す動的なシステムとして美術というものを捉えるしかないんじゃないかな。
大山
ドゥルーズの場合、部分が入れ替わっても全体が残るというような話を乗り越える上で、ベルクソンを参照していますよね。
千葉
ベルクソンはやはり大きいですね。僕らの日常的な経験みたいな、存在論の用語でいうと中規模レベルといわれる存在者の空間、人間の生活空間ですね。マクロレベルは宇宙論でミクロレベルは素粒子とかの話しになるんだけど、中規模レベルの存在者に関するドゥルーズの言説というのは、大筋のところベルクソンと一致するんですよ。だから、ベルクソン的な、ある種の流れの持続が質的変化を続けるっていう議論をモデルとして考えれば、理解としては基本的には妥当なんですね。ただ、ベルクソンの場合には、変化し続ける持続というのがある統一体であり、ある種のインディヴィデュアルであるということを大前提にしているところがあって、そこがベルグソンのある種の自然主義みたいなものにつながってくるんです。ところが、ドゥルーズはそれにひとひねりを加えて、そういう自己の持続的な変容において、ディヴィデュアルに切断され続けるというようなニュアンスをそこにつけ加えるのね。そこがドゥルーズのある種の反自然主義です。
池田
映画の問題ですよね。
千葉
そう、映画の問題。ある種の等価な時間のフィルムに分解されてしまった身体っていうのを、ある速度でバーっと動かすことによって、ファンタスムとしてのまとまりを生み出すっていうのかな。僕らの実存というのを、そういうものとしてドゥルーズは捉えるんですね。そこがベルクソンと違うところです。
大山
では、最後の質問にしたいと思います。
質問者3
千葉さんが言われていた「サディズム的にならないように住まうこと」というのと、池田さんが言われている「記号的ではなくて肉体的または物質的な翻訳可能性」というのが近いところにあるのかなと思うのですけれど、住まうこと、翻訳するっていうことを考えた時に、美術においては例えばオマージュとかカヴァーとかあると思うのですが、その辺との関係というか、住まうことっていう言葉がターゲットとしていることっていうのはどれほどのものなんでしょうか。
千葉
オマージュということはマゾヒスティックな内在的反復になりうると思いますよ、やりようによってはね。ただ、モデルと価値的にそれに従属するコピーというヒエラルキーを想定してしまうと、保守的になりますよね。だけれど、そうではなくて、モデルというものの地位それ自体を脅かすようなコピーの在り方っていうのを、つまり単なるコピーとは違うシミュラークルというのを、ある種のカヴァーやオマージュのプロセスの中で創り出していくことができれば、そこで行われているのはマゾヒスティックな変形であると言えるんじゃないですかね。そういう意味では、それは元となっているモデルを住まい直すということであるし、リフォームするということであると僕は思いますね。住まうということは常に住まい直しだと思いますね。
大山
では時間が近づいてきたので、最後にお二人に一言ずつお願いしたいと思います。
千葉
大変貴重な機会を与えて頂き、沢山の方にお越し頂き、本当にありがとうございました。今回池田さんからいろいろ具体的な例を出して頂き、僕自身も考えを整理することができました。ポリトラウマティズムの中で異なるセクシュアリティに変形していく可能性など、そんなキーワードで出てきたものを、美術においてさらに具体的に考えたいですね。
池田
「絵画を再起動する」っていうタイトルで、それにしては絵画の話をまた迂回し続けた感がなくもないですが、しかし、その絵画をめぐる円環運動の中で、その内側にあるもの、あるいは外側にあるものに少しでも触れたんだとすれば、それはそれで良かったんじゃないか。再度強調しておけば「再起動」ということで言いたかったのは、絵画というのを一つのプログラムとして考えた時に、何か原点やゼロ地点があってそこに立ち戻るとか、初期化するということではない。むしろそういう考え方は全く幻想にすぎなくて、むしろ歴史は常に再起動し続けるところにこそある、ということでした。今後の課題もできたし、美術を中心として旋回していく中で議論が続けられればと思っていますので、ひとまず今日はこの円環運動を閉じたいと思います。皆様、長時間ありがとうございました。
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「千葉雅也×池田剛介|絵画を再起動する」
企画:大山エンリコイサム、石塚つばさ
トランスクリプション:杉本喜洋、大山エンリコイサム
編集:石塚つばさ、大山エンリコイサム
“Masaya Chiba, Kosuke Ikeda|Rebooting Painting”
Organized by Oyama Enrico Isamu Letter, Tsubasa Ishitsuka
Transcription: Yoshihiro Sugimoto, Oyama Enrico Isamu Letter
Edit: Tsubasa Ishitsuka, Oyama Enrico Isamu Letter

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