■傷の複数性とモダニズムの分割可能性
千葉
ディヴィデュアリティとは分割可能性、複数性の問題ですが、そこで、さっき出てきた口の問題について考えてみましょう。ジョーカーは、自分の口をめぐるエピソードを繰り返すわけじゃないですか。父親に切られたとか、いろいろあるわけですが、要するにある種のトラウマですよね。口っていうのはまさしく開口部である──それは、抽象化して言えば、モダンな人間主体というものに根源的に刻まれている超越論的な傷と言ってもいい。ジョーカーは、常にある1つの傷の様々な偽装を反復するという主体性を体現しているのだと思います。
だけどこの傷の数っていうのかな、自分の成り立ちを支えている経験の可能性の条件としての傷の存在論的な数っていうのかな、これを問うことがディヴィデュアリティの問題に深く関わっているような気がするんですよね。自己という歴史を削り出す傷が単数なのか複数なのか。そうした視点から考えてみるという方向はどうでしょうね。
大山
先ほどジョーカーの口の傷の話がありましたが、口が裂けていることの起源を複数化するということが、にもかかわらずジョーカーという人物あるいはその身体が単一であるっていうところで仮にバランスがとれているんだとすれば、ディヴィデュアルな身体という問題とつながってくると考えられそうですよね。
千葉
傷が単数であるからこそジョーカーはインディヴィデュアルであり、ジョーカーはインディヴィデュアルであるから傷は単数であり、その単数性に支えられているからこそ傷のエピソードを好きに偽装し言い換え続けることができる──そういうエコノミーが近代的な主体には働いていると思うんですよ。だけれど、傷っていうものがもっと分散的になっていく可能性があるんじゃないのかという気がする。
池田
それを絵画の問題とつなげると、最初のプレゼンテーションで主体の根拠をどこに設定するかっていうことで、クリストファー・ノーランなんかは記憶の統合的な履歴に対して部分的にズレを起こさせるとか、そういう話をしました。一方でよく言われるのは、モダニズムが、例えば絵画の特性としての平面性とか、キャンバスの物質性を最終的な根拠とする、というような議論ですよね。絵画が持っている特性のほうに純粋還元していくっていく、あるいはジャンル的にアップデートしていくっていうのがモダニズムの前提条件だったとすれば、千葉さんの話は、むしろそういった単一の前提や最終審級としてのキャンバスへと作品の根拠を集約していくことをズラしたいっていう、そういうヴィジョンでもあるわけですよね。
千葉
そうですね。
池田
絵画なら絵画というジャンルを批判的にアップデートしていきたいという時によく言われるのが、それこそモダニスティックに純粋還元していって、絵画が絵画それ自体であるし、それ自体でしかあり得ないような純粋性、単一性っていうのを確保する方向性。
千葉
グリーンバーグ的に。
池田
そう。でも結局、そういう平面性なりメディウムなりっていう条件をあらかじめ設定して、その純粋性を極めていくということになると、にもかかわらず、そういった平面性だとかいう条件自体が他律的な文脈、それこそモダニズムという文脈によって与えられているに過ぎないんじゃないか、というジレンマがあるわけです。
先ほど情報環境とかネットの話をしたけれども、あの辺の話っていうのはある種それを相対化するような視点を持っているように思えます。ディヴィデュアルということからタグやキャラクターの話をしたけれど、それを踏まえてみると、そもそもモダニズムというもの自体が複数のモダニティを持ってたんじゃないかっていうふうに考えることもできるんじゃないかって思うんですよね。
西洋モダニズムで言うと、クールベがいて、印象派やセザンヌがあり、キュビズムから抽象へ、みたいに絵画というジャンルが純化を極めていくようなヴィジョンとして語られるんだけれども、この単線的なフィクションを別の形で考えたい。つまり、絵画のモダニズムを複数のタグに分解して考えてみよう、と。「色彩」ってタグがあったり「筆致」っていうタグがあったり「キャンバス」っていうタグがあったりとか、様々なタグがありうる。で、「色彩」タグのなかではマティスはかなり再生数多い、とかさ(笑)。「社会性」タグにおいてはクールベってけっこうコメント率高くて、「純粋性」タグの中ではマレーヴィチががんばってる、とか。こんなこと言ってると各方面から怒られちゃいそうな気もしますが(笑)、ともかくそういうふうに、絵画の特性っていうのをディヴィデュアルなものとして分解した上で、むしろ複数の突出したモダニティがあるっていうふうに考えられるんじゃないか。
千葉
なるほど、そうですね。
池田
むしろその単数性っていうのはとりあえず疑う、で、もう一度情報環境などの議論を踏まえた上で再構成可能なものとしての絵画、それこそディヴィデュアルな絵画っていうものの見方っていうのを、さらに作品レベルで考えていきたいとは思うけれど。もちろん、こういった形で情報環境の議論と絵画の議論を結びつけることには、もっと詳細な検証が必要で、こういう粗雑な言い方で語りえないものはたくさんあるし、その問題点も理解しているつもりですが、何かしら新たな形で歴史を読みなおすための突破力にはなるかもしれない。
千葉
語りに語られて定着しちゃったモダニズムの神話っていうものがある。しかし重要なのは、モダニズムの神話とモダニティそのものを区別することですよね。これは違うわけで、モダニズムの神話っていうのは、純粋性や単一性(のフィクション)を求めるけれど、モダニティってそんなに整理されたものじゃない。もちろんモダニティへの移行は、以前の伝統が解体した結果だから、リセットではあるわけで、ゆえに純粋な形式性に向かっていくという議論になるわけですが。でもモダニティって、解体の途上ですよね。ボードレールが描いたような宙づりの状況です。そこには様々なアスペクト、様々なタグがあるわけで、その突出点は、視点のとりようで変わってくる。また、途上としてのモダニティは、ときにプレモダンでもポストモダンでもありうるような、いわば不定法の時間性をもっているとも言える。
池田
純粋性とかっていう意味ではフランシス・ベーコンなんていうのは極めて異端的な作家っていうか、どう考えても評価できない。あからさまにミック・ジャガーとか描いちゃってるわけですよね。こんなの、普通に考えたらあり得ない。しかしそれがこう、あり得てしまうっていうか。それをどういうふうに評価できるのかっていうのは可能性としてはまだ残ってる気はするんですよね。
ひとつちょっとベーコンの関係で思い出すのは、日本で言うと横尾忠則っていう作家がいて、こないだ一緒に『批評の現在』シンポジウムにも出ていた黒瀬陽平さんが『ユリイカ』で横尾さんのインタビューを取っていて、横尾さんは、ナイアガラの滝のポストカードを買うために、ナイアガラの滝に行って、ポストカードのついでに実際のナイアガラの滝を見て帰る、と(笑)。あるいは最近、京都造形芸術大学で横尾さんの公開制作が予定されていたんだけども、その公開制作の際には画家のコスプレをして描くっていう話だったらしい。これは結構すごいことじゃないか。だって、そもそもあんた画家でしょ、っていう(笑)。にもかかわらず、画家のコスプレをしようとする、あるいはナイアガラの滝に行ってさまざまなバリエーションのポストカードを買う。
つまり、描くモチーフや、あるいは描くという行為そのものに対して、複製化された、ある種の紋切り型を当てはめながら、なおかつそれを異化し、別のものへと変形させていく。ベーコンの軸の延長線上で、ほとんどウェブにおけるMADにも近い想像力のありようが提示されているとも言えるかもしれない。
千葉
なるほど。
池田
アーキテクチャという概念は、ローレンス・レッシグが人間の行為を規定するものとして「法」「規律」「市場」「アーキテクチャ」というふうに並べているわけですが、アーキテクチャというのはある種の「法」のようなものとも言える。そうして考えてみると、例えばベーコンや横尾忠則が示しているのが、所与の紋切り型のイメージを受け入れる、つまり「法」を受け入れつつ内在的反復を通じて変形させていくようなマゾヒズムの戦略に近いとすれば、ニコ動とかYouTubeといったアーキテクチャの仕組みの中から生成されてゆくMADのようなものと、ある部分では重なるような気もするのですが、そこは区別したいという感じなのでしょうか?
千葉
いやいや、歴史的なアーキテクチャを引き受けた上で、それを反復して異化するっていう意味では、ニコニコ動画なども評価できると思うんだけど、問題はそれがどれくらい、セクシュアリティや身体性のレベルへ斬り込めているかっていうことです。さっきキャラとキャラクターを分けましたけど、キャラの自由度に対してキャラクターが持っている政治性をちゃんと考えなきゃいけないって言うと、それこそキャラの自由度だけでいいと思ってる人たちには古くさく見えるでしょうね。ありふれた左翼じゃないのかと思われるでしょうが、しかし強調したいのは、キャラの操作をすることでキャラクターに踏み込んじゃうという可能性なんです。n次創作としてのキャラの組み替え可能性と戯れることで、その愉悦に浸りながら、欲望のポリティクスを攪拌する可能性です。それが反復によるリアリティの異化ですよ。
■複数的なセクシュアリティ
大山
オタクのセクシュアリティの問題で言えば、彼らは現実世界において実際の女の子とやりとりするのが苦手であると考えられています。その現実問題を隠蔽してヴァーチャルな世界へ入り込むことで、自らの安全地帯を確保し固めているとも言えるわけで、その上でシミュラークルの世界で、ディヴィデュアルなものとひたすらに戯れ続けることができる、とも言えるかもしれません。
千葉さんの考えっていうのは、そこでヴァーチャルな世界で現実問題を捨象したままディヴィデュアルなものと戯れ続けても仕方がないわけで、現実世界というとあまりに素朴ですけど、よりポリティカルであったりラディカルな部分の問題を考えていかなくてはいけない、っていうことでしょうか。
千葉
もちろん男性オタクの人たちに女性とちゃんと付き合えと言っているわけではない(笑)。問われるべきは、シミュラークルとの戯れによるセクシュアリティの乱調です。ヘテロセクシュアリティの抑圧構造に基づいて、その上澄みとしてシミュラークルの戯れが消費されるなんて、ぜんぜん面白くない。でもシミュラークルの戯れのあちこちには、異なったセクシュアリティへと開かれていく賭場口があると思うんですよ。
池田
しばしば東さんなどによるデータベース消費、キャラクターの組み替え可能性っていうところに対立する議論としては、斎藤環さんとかが言うように、そういったキャラクターの消費や変形の欲望を支える主体のセクシュアリティというのが議論から外れてるんじゃないかっていう反論は考えられるわけですが、千葉さんはそういった、個別的な、固定化されたセクシュアリティっていうのも横にズラしたいっていう、そういうヴィジョンでしょ?いや、相当ねじれてますよね。
千葉
その通りです。斎藤環さんはすごく保守的なラカン主義者ですよ。彼は、人間は1つの始原的なトラウマを刻み込まれて、その偽装の変転のなかで主体化を遂げてくっていうヴィジョンのなかで考えている。だから彼のオタク論っていうのは、隠蔽されたセクシュアリティの謎を明るみに出すという仕立てになってるけれど、そこで隠蔽されていると想定されているセクシュアリティっていうのは、あくまでも単数的な傷によって切り出されたセクシュアリティなんですよ。僕は、そうした立場とは距離をとるんです。そこで、キャラのディヴィデュアリティを擁護する東さんのような人たちに半分は賛同して、しかしそういう人たちが暗黙のうちに拠って立つヘテロセクシズムをぶっ壊して、ディヴィデュアルなセクシュアリティの可塑性へと、シミュラークルの愉悦からアプローチできないかということになるわけです。
美術のほうへ戻りましょう。いま話したセクシュアリティの可塑性というテーマは、変形のプロセスにおいて作品をいかに個体化するかという課題につながってくる。サディズム的にバラバラにするんじゃなく、マゾヒズム的といえる個体化を促すようなフレームの複数性をいかに活性化するか。
■絵画の保守性、翻訳の可能性
池田
しかし、そもそも絵画が単一的であるべきだっていう要請はたくさんあって。というのは、そもそも絵画じたいが、7-80年代を通じてリヒターに代表されるように、複製メディア、写真のイメージなんかをどんどん取り込んできた歴史がある。あるいはラウシェンバーグやウォーホルの段階から、そうした絵画の複数化は進んでいく。他方、ミニマリズムの延長線上で常套手段になってきたインスタレーションっていう形式があると思うんです。つまり、モノとモノとの関係性、あるいはモノと観客との関係性を含んだ上で、作品の質を定義づける、というような。これもまた複数性や断片性を志向することになる。
絵画自体が複数化してゆき、同時にインスタレーションという手法もまた経験を作品と観客との関係性のほうへと開いていく「かのように」も語られる。その中で絵画は二重の反動を受け入れるかたちで、単一性を希求する媒体でもある。さらにいえば、そもそも市場というものが作品の単一性を強く要請するわけですから。しかし、「いや、だったらインスタレーションでいいんじゃない?」っていうのも、あまりに容易な答えであるような気もする。
千葉
絵画の可能性って擁護しうるものがあると思うんですよ。ある種のインスタレーションって、すごくダメなサディズムにいくことも多いわけで。他方、絵画っていうのはすごくダメな保守性に向かうことがあり、それが単一化のファシズムってことだけど、そのちょうど間のところに成立するような、極めて難しい保守性のありかたっていうのかな。基本的に僕、絵画って保守的なものだと思うんですよね。絵画っていう概念自体が。ある種のプランを設定して、そこに落とし込んでいかなきゃいけないわけだから。その保守性をいかに捻るかっていうことですよね。
池田
ちょっとひとつ、そこで思ってるのは、「翻訳」っていうことをちょっと考えていて、僕自身がわりと翻訳をバイトでやっていて。美術作家と言ってるなかでは日本で最も翻訳をやっている一人なんじゃないかという自信があるのですが(笑)、先ほどキャラクターについて触れましたけれど、キャラクターっていうのは「文字」という意味も持ってます。
翻訳というものは、基本的に不可能な作業というか、やってて「こんなのできねーだろ」とか思うわけですね。そもそも複数の言語、日本語と英語であれ、全く異なる文法構造、シンタックスをもっていて、それをある種、暴力的に変更していく作業なわけです。で、普通は原文の意味を汲み取って、もう一つの言語構造の中にナチュラルに落とし込んでいくっていうのが、良い訳っていうふうに考えられてるんだけれども、ベンヤミンが「翻訳者の使命」というテクストで、面白いことを言っていて。要は、翻訳っていうのは逐語訳でいけ、原文の言語構造をそのまんま訳すんだ、というようなことを言っている。意図を汲み取って、別の構造内に自然に組みかえていくっていうのでなくて、敢えてむりやり、そのまんま構造を訳すべきだ、と言うわけです。それによって変更される言語の構造自体が新たなものに変形していくような可能性として、翻訳っていうことを考えているんです。
それを絵画制作にあてはめて考えてみると、例えばさっき千葉さんは「所与の条件をどういうふうに使うか」っていうふうに言われたけれども、それこそ現代美術っていうのが、モダニズムが破綻した以降、さまざまな形で開かれた、あるいは開かれてしまった、っていうような状況があると思う。写真もあるし映像もある。インスタレーションでもいいし、アニメーションでもいい。パフォーマンスもあるしコミュニケーションでもOK、というように。まさに所与の条件として、さまざまな制作言語を内包しているわけです。
そこで可能性としては、それぞれのメディウムの特性に還元していく、という方向性でなく、あえてそういった雑種性、複数性、というものをポジティヴに扱うことができるんじゃないか、と。そういった複数の制作言語を強引に翻訳していくような、例えば絵画と彫刻の間を強引につなげていくとか、あるいはそのインスタレーションと絵画でも何でもいいけれども、そういう複数の異なるオーダー間をむりやり翻訳していくような方法論がありえるんじゃないか、と。
先ほどキャラクターの話で、「キャラ」と「キャラクター」、つまりキャラクターの記号性と身体性とを分けたけれども、ここでいう「翻訳」というのはキャラクターの記号性、つまり文字の記号性のほうではなくて、文字の身体性、あるいは物体性のほうに触れると思うんですね。つまり、文字が単なる意味だけではなく物質性をも持っていて、であるからこそ複数の言語を変換する際にある種の摩擦が起こって変形していってしまう。
千葉
そうですね。
池田
で、そうやって考えてみるとね、似たような問題意識をはらんだ制作をしている作家はたくさんいると言えばいる気もする。東京藝術大学で木幡和枝さんがプロデュースしたアントニオ・ネグリ招聘企画の一環として、粟田大輔さんが企画して『Vivid Material』っていう展覧会をちょうど1年前ぐらいにやっていて、僕も参加していました。そこで出されていた名和晃平(リンク:http://www.kohei-nawa.net/)さんとか、あるいはそのあと一緒にcon tempoで『fly』という小さな展覧会をやった田幡浩一(リンク:http://www.kouichitabata.com/)さんとか。田幡さんは、絵を描くということの原理の延長線上でアニメーションを作ったり、逆にアニメーションの原理を圧縮して二枚組の絵画にしたり、アニメーションと絵画の相互翻訳をしているとも言えるし、あるいは名和さんであっても彫刻をピクセルとして、つまり視覚的なデータとして強引に変換していくようなシリーズを展開しています。
千葉
絵画ですよね、一種の。
池田
そういう意味で、 単一的な方へ向かうメディウム・スペシフィックに代わる、複数の制作言語、複数のメディウムを強引に架橋していくトランスメディウム的な方法論を考えてみたい気がするんです。雑多に与えられている様々な言語の中でその個別の単一性を突き詰めるのではなくて、与えられた雑多性を引き受けつつ、しかし単に雑多に散らかった状態に居直るのでもなく、そこから新たな秩序、構造をかろうじて立ち上げていくことができるのか。そういうことを実践を通じて志向してる人っていうのは意外といるんじゃないかと思うんですよね。
千葉
複数のオーダーのあいだをスムースに横断するのではなくて、そこに物質的な抵抗感をもった翻訳関係があるからこそ面白いんですよね。それはポリティカルな問題であるとも思う。翻訳関係のなかで摩擦を含みつつ総合するときに開かれる政治空間。セクシュアリティもそうです。セクシュアリティの翻訳というか、あるセクシュアリティから別のセクシュアリティへと摩擦を孕みながら変換していくような、そういう身体の曲折をどうやって作品へと捲き込んでいくか、僕はそうしたことに興味があるんです。そういう作品が、どういう形でありうるのかを考えたいんですね。
(つづく)

(c) con tempo