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con tempo


大山
司会の大山です。シンポジウムを始めさせていただきたいと思います。今日は遠いところまでお越しいただきありがとうございました。この場所はcon tempoという名前で呼んでいますが、普段は美術作家である池田さんですとか、僕も制作のスタジオとして使っています。空間もあるので、この春から定期的にイベントなり、シンポジウムを行っていこうということになりました。今月の11日に音楽家のカール・ストーンさんを呼んでライブを行ったのが最初だったのですが、第2弾というような形で今回シンポジウムを企画したという流れです。

ではパネリストのお二人のことを簡単に紹介します。向かって左側にいらっしゃるのが千葉雅也さんです。千葉さんは、専門は哲学ですが、美術や音楽など幅広く評論活動もやっていらっしゃいます。向かって右側が池田剛介さんで、美術作家でありながら同時に評論活動も行っています。では前置きはこれくらいにして、基調報告をお二人に行っていただきましょう。池田さんのほうからお願いします。

池田
紹介していただきました池田です。こんなに大勢の方が来られているとはつゆ知らず(笑)、遠いところをわざわざありがとうございます。紹介にあったように僕は実制作をしている人間で、絵画という主題には常に惹きつけられてきました。けれども、いわゆる絵画っていうものを僕らが想定する上でのいちばん基本的な単位、キャンバスに絵の具を絵筆で置くっていうような、そういう基本的な単位を回避しながら絵画に対するアプローチをやってきたっていうところはあるんですね。何となくこう、皇居のお堀の周りをジョギングしているみたいな、そういう感じもするんですけど(笑)。

千葉
虚の中心を巡ってね(笑)。

池田
そうそう、空虚な中心の周りを巡っているっていうような感じで。とはいえ、そうやって惹きつけられてきたということもあるので、今回ちゃんと考え直す良い機会になればいいのかな、と思っていたんですね。それで、この周回するというか、絵画の基礎的な単位を迂回しながらやってきたということもあって、今回もそれにのっとりながら、まずは映画の話から始めてみたいと思います。

お見せするのは『ダーク・ナイト』という、去年の7月にアメリカで公開され、日本でもそのあとすぐに公開になった映画で、日本ではそこそこだったけれど、アメリカではかなり話題になりました。これまでの興行収入の第2位、タイタニックに次ぐ大ヒット作になったんですが、クリストファー・ノーランという『メメント』なんかを撮った監督の作品です。基本的に一昔前のハリウッド映画として想起するようなスペクタクルというか、それこそ『インディペンデンス・デイ』とか『アルマゲドン』とか、いわゆるスペクタクルみたいなものとはちょっと違うテイストで、 2時間半くらいの長い映画になっているのですが、その一番ラストに近いシーンをちょっとお見せしたいと思います。

少しだけ背景を説明すると、2つのフェリーがあって、一方には囚人たちが乗っていて、他方にはバットマンの舞台になっているゴッサムシティの普通の市民が乗っている。それで、その2つのフェリーに両方ともジョーカーが爆弾を設置して、さらにそれぞれのフェリーにそれぞれ相手方の起爆装置を与える、と。どちらか一方のフェリーが助かる。一方のフェリーが起爆装置を押せば、他方のフェリーが爆破され、他方のフェリーが起爆装置を押せば、こっちの側のフェリーが爆発する、そういうある種の選択を迫られているような状況で、それをバットマンとジョーカーが戦いながら遠くで見ている、そういうシーンですね。

リンク:http://www.youtube.com/watch?v=3dtFIjaD5hA

(画面を見ながら)ここで確認できるように、ジョーカーが宙づりになって頭を下に下げていて、バットマンがすぐそばで膝をついて向かいあっているという、そういうシーンなんですけれども、もう一度それを確認したいと思います。ジョーカーがバットマンに突き落とされて、それをバットマンがジョーカーを殺さずに拾い上げる。拾い上げて、頭を下向きにして宙づりになってる。で、ここでゆっくりとカメラが半回転するというか、180度回転してジョーカーが頭を上に向けているというシーンになります。あるいはジョーカーが画面のフレームを支えにしてゆっくり回転したかのようにも見えます。ともかくそこで、映画を見ている観客としては、ジョーカーが半回転して、バットマンと対面して向かい合っているかのような、そういう映像が与えられる。

この「半回転」について考えてみたいと思います。ジョーカーとバットマンとの間を挟んだカメラの「半回転」。これをちょっと飛躍させて考えてみると、ある種の「反転」とも言い換えられるかもしれません。ジョーカーとバットマンはある種の「反転」を挟んで向かい合う二人ということになるのですが、このシーンでジョーカーがバットマンに語る内容というのはまさに「俺もお前も一緒だ」というようなことで、ジョーカーもバットマンを殺すことはできないし、バットマンもジョーカーを殺すことができないよ、と。結局、俺達は一生追い回し続ける、戦い続ける運命にあるということを言うんですね。

いわばこれは鏡を挟んだ鏡像、バットマンが自らの鏡像と向かい合っているというシーンだと考えることもできると思います。そうすると容易に想像ができるように、今回の絵画の議論とつなげれば、自分の鏡面を見ながらその影、あるいはイメージに溺れていくようなナルキッソスのモチーフが引き出されるでしょう。そもそも鏡というモチーフは絵画というものを考える上で一番スタンダードなものの一つで、アルベルティが『絵画論』のなかで、ナルキッソスは絵画の発明者である、と言ったわけですが、ある平面上に3次元的な空間が映し出される、あるいは自己のイメージを映し出すものとして鏡が考えられるわけで、絵画を語る上での非常にスタンダードなモデルと言えます。

しかし、このシーンで問題にしたいのは単に鏡像関係、ということではなく、むしろ重要なのは、こういった鏡像的な関係が、カメラの半回転を通じて与えられている、ということでしょう。全く相反するかのように思えるバットマンとジョーカーが、鏡像的に一体化しつつ、しかし同時に、それこそナルキッソスは水仙になって静止してしまうわけですが、ここでは「俺たちは戦い続けることになる」というように、決してその運動を完結させることなく、二者が回転を続けることが示されている。ナルシシズムに触れつつ、その二者間の享楽状態を「宙づり」にさせるための、きわどい戦略が見てとれるのではないか、と。この反転と回転との二重性については、また後に考えてみたいと思います。

さらにこのジョーカーのシーンというのを絵画的な連想で言うと、これは誰もが思いつくと思うのですが、フランシス・ベーコンという名が導きだせるでしょう。実際にこのクリストファー・ノーランという監督自身がベーコンの絵画をもとにこのジョーカーを作っていったとインタヴューで発言しています。言うまでもなくベーコンというのは口をよく描く人なわけで、ジョーカーにおいてもまた、口が重要である。例えば、先のバットマンに突き落とされる前のシーンでも「俺の口の話を知っているか?」とジョーカーがバットマンに聞くのだけれども、この映画ではジョーカーが何回か自分の口の形のエピソードを話すということがあって、ある時は「酔っぱらった父親に切り裂かれた」と言ったり、ある時は「女房を笑わせるために口を切り裂いたんだ」というようなことを言う。    

顔というものが、ある1つの主体、1つの人間をリプレゼントするものであるとすれば、その起源を複製していくというか、横にずらしていくというか、そういう戦略をジョーカーはとっていて、その類推でいえば、ベーコンは絵を描く時に、特にイメージや写真といったものに惹かれた人なのですね。例えば、ベーコンは「法王イノセント」のようなモチーフを扱う際に、ベラスケスの法王を描いた作品を参照するのですが、その時に「実際の作品は見たくないんだ、写真が重要なんだ」というようなことを言うのですね。実際にそれを見る機会があったりした時もそれを拒否する、と。あるいは、誰かの肖像画を描く時とかも「実際の本人の前では描きたくない、写真を描くんだ」というようなことを言っています。あるいは『戦艦ポチョムキン』の中の叫ぶ女の写真や、マイブリッジの連続写真から発想を得たり。つまり何かを描くという時に、ある種イメージというか、すでに複製されたもの、模造されたものを好んで使っています。その意味で、ここでもジョーカー的な主題と触れているのかなという感じがする。

もう1つだけ例をあげて、僕のプレゼンテーションとすると、このノーランという監督自身の出世作として『メメント』という作品があって、それもまた「記憶」を扱う作品なのですね。少しだけ説明すると、主人公が前向性記憶障害を抱えていて、記憶が10分ごとに途切れ途切れになっていく。その障害は自分の妻がレイプされて殺され、その現場で主人公が受けた物理的な脳への外傷による。つまり妻が殺されるまでの記憶はあって、その後は10分しか記憶がもたず、ある人と長く話していると、最初に話していたことを忘れていってしまう、というような具合。それで、その主人公は犯人に対する復讐を考えるわけだけれども、結局、記憶が続かないから、うまくいかないわけですね。

そこでどういう戦略をとるのかというと、常にポラロイドカメラを持ち運び、何かある度に自分が見たものを撮って、メモを付与していく。そのメモを断片的な記憶の集積として再構成していくなかで、何とか犯人を捕まえる、つまり「対象を捕捉」しようとするのですね。さらに重要なメモは、身体そのものにタトゥーとして刻み込んでいく。それはまさに、絵画において見えるものを描くというモチーフと重なってくると思うのだけれども、端的に言えば、それこそ印象派の問題。つまり、今ここで対象が見えているが、しかし同時に移ろい変わってしまう。その瞬間の印象というものをどのように絵画のなかに留めていくか、要するにモネの問題です。どんどん変わっていくような水面の印象というのをどのように捉えることができるのか。結局それは、その瞬間というのに対して常に絵を描くということは遅れてしまうから、連作というような形で横滑りするというか、開かれていってしまう。

まさにそれは『メメント』において、記憶の断片がポラロイド写真としてバラバラに配置されているような断片性を、絵画を描くというシステム自体が孕んでしまうという事態を示している。あるいは、それでも対象を捕捉すべく、むりやり記憶の断片を統合しようとすればどうなるか。例えばセザンヌの問題設定としては、そうやって瞬間的な対象の印象は移ろいゆくのだけれど、にも関わらずある種の統一感覚みたいなもの、ある種のまとまりとして対象が見えてしまうのはどういうことか、ということになってくる。

ここでノーランがやっているのかなと思うのは、要は、ある人物を支える最終平面ないし最終審級、あるいは時間の履歴としての記憶みたいなものに対して、部分的な欠損を生じさせる、ということだと思います。でも、それはいわゆる記憶喪失というモチーフとはちょっと異なる。というのは、記憶喪失のモデルはそれこそ初期の映画ですごくよく出てくるのだけれども、まっさらに記憶がなくなった状態で新たな経験と出会うとか、真性の、正しい起源に出会うとか、そういうものですね。対して『メメント』の前向性記憶障害は、部分的に欠損を抱えていて、にもかかわらずその主体が行動するということをどのような風に支えていくことが可能なのか、そういう問題設定を投げかけている。要は、絵画を考えるという時に、さまざまなドグマや、あるいは絵画が歴史的に展開してきた蓄積を、記憶喪失的に全部忘れてしまって、まっさらな状態で新たに描く、ということにはならない。むしろ、それをどういう風に再起動していくのか、全く初期化するのではなく新たな形でどういう風に再編成することができるのか。こういった地点から絵画をもう一度考え直すということをスタートできればいいのではないかと思います。

大山
ありがとうございます。池田さんの発表で主に論点が3つあったと思うのですが、2つが『ダーク・ナイト』から出されました。まず、ジョーカーの反転があってバットマンと向かい合っているというところから、鏡像関係あるいはナルキッソスの問題がひとつ出されていたし、次にジョーカーの口というところから起源の複数性の問題、絵画で言うとベーコンが実物ではなくて写真を基に描いていたという、そういう論点もひとつ出ていたと思います。そして『メメント』からは、記憶の断片性とその集積というものが絵画における印象派的な視覚、断片的な視覚をいかに絵画に落とし込むかということに重なるのではないか、あるいはそれを無理に統合するとセザンヌの問題設定になるのではないかという話でした。映画の分析から絵画の問題に繋げていくという展開だったのではないかと。では、続いて千葉さん、お願いいたします。

千葉
よろしくお願いします。今の池田さんの話から2つ、僕なりに引き受けたいと思います。まずは「半回転」ですね。それが、あの『ダーク・ナイト』においては、鏡像的関係の設立をもたらしている。他方では、ある記憶の欠損による自己のアイデンティティの分割可能性の問題ですね。まず、『ダーク・ナイト』では、一見したところ、典型的にモダンな主体性が示されているように思える。つまり、正義の主人公がいて、悪の権化というのがいて、それが最終的に表裏一体の鏡像関係に入っていくわけですね。近代的主体は、対極のリミットのあいだで反射=反省(reflexion)しつづける。『ダーク・ナイト』もまた、それをあらためてドラマ化しているわけです。だけど『メメント』という作品では、近代人の鏡像性を打ち砕いてしまう自己の破砕、断片性というものが問われている。

この断片性、あるいは「分割可能性」を、いったん用語として定着させておきましょう。ジル・ドゥルーズという哲学者が「ディヴィデュアル(dividual)」という概念を作っています。「インディヴィデュアル(individual)」というのは分割できないものですが、それに対して、分割可能なものを示すためにディヴィデュアルという言いかたをしたわけです。近代的主体は、つねにリミットとの関係において、ひとつのインディビデュアルな場を作るわけですが、それに対して、ディヴィデュアルの可能性について考えていくと、近代批判へ向かうことになるでしょう。そして、モダニズムの絵画というものからどうやって距離をとるか、あるいはそれを、どのように別の方向に進めていくかを考えることになる。

そこで、僕の話に入っていきたいと思います。池田さんが強調しているように、「絵画を再起動する」ということは、ゼロから始めるということではなく、ある所与の状態というのをどうやって引き受け直していくか、ということなんですね。それが「記憶」という問題に関わっている。しかし、モダニズムの典型的な言説というのは、絵画というものを理念的な「白紙性」から出発して考える。グリーンバーグならば、純粋な視覚の平面というものを理念として出してくるわけです。これを哲学的に抽象化するなら、視覚というものは、より広く「感覚」と言い換えていいだろうし、平面は、「世界の地平性」として捉えることができるかもしれない。絵画は、ここにある池田さんの作品もそうですけど、文字通り平らな支持体にペインティングされているものを指すだけではない。なんらかの感覚に訴えるようなエレメントが、一貫性をもつプランを構成するものであればよい。インスタレーションのようなものでも、絵画だと言えないことはないでしょう。そういうふうに、広い意味での絵画の哲学というのを考えてみたいわけです。絵画とは、なんらかの感覚に訴えるエレメントによって構成された世界地平である。絵画の哲学とは、「感覚的な世界地平の存在論」というものになるでしょう。問題は、この感覚的な世界地平というものが、モダンな認識の枠組においては、極めて一元的なものとして捉えられてきた、ということですね。
 
近代という時代には、人間の有限性こそがあらゆる知のテーマになりましたが、芸術もまたそうであるわけです。遠近法は、一定の有限なフレームと奥行きを設定する。世界を切り取るための単数的な地平を設定するわけです。しかしモダンという時代の前後には、異なった状況がある。一方で、プレモダンにおいては、神の「透明な普遍性」において世界が見られていた。そこでは、存在の多様性が、神の「恩寵」としての眼差しにおいて肯定されていた。他方で、ポストモダンにおいては、モダンの有限な視点が複数化し、遍在化することによって、世界が無数の小さな島宇宙に分解されていく。

神の眼差しの「透明な普遍性」と比べて、人間のパースペクティヴには、いわば「半透明な特殊性」があると言ってみましょう。ポストモダンにおいては、そうしたパースペクティヴがさらに複数化し、遍在化して、世界をバラバラにする。いたるところが、明るみと暗みの不透明な「襞」によって分断された状態。いわば「不透明な遍在性」です。

ポストモダンとは、過剰にすべてが前景化されている状態だと言われるときがあります。たとえば、東浩紀は「過視性」という言葉を使っていますね。あるいは、「過透明」というふうに言ってもいいかもしれない。しかし過透明になると、あらゆるものが、すべて「謎」として「現れて=隠れて」くる。「過透明な暗号」とでも言えましょうか。不透明性と過透明性とが、ある種イコールになっているような状態があるように思えます。

ところで、抽象表現主義などモダニズムの絵画は、有限な経験がその外部へと開かれる「傷口」を問題にしてきました。たとえば、バーネット・ニューマンがその典型ですよね。「崇高」な外部性としての傷口をめぐる(不可能な)表象、それは単数的なものとして措定されやすい。ですが、それをいかに複数化するかを考えてみたいのですね。崇高な外部性、それを「出来事」と呼びなおすなら、問われるべきは、出来事の複数性、あるいは分割可能性、ディヴィデュアリティです。しかしながら、それを考えていくと、かえって出来事の単数化へと至ってしまうということがしばしばあると思うのですね。ドゥルーズは、あらゆる出来事が、いかなる価値のヒエラルキーもなく、平等なしかたで特異であるという議論をします。すべては等しく異なっている、と。難しいのは、この「等しく」異なっているということのバランスです。アラン・バディウによれば、ドゥルーズの哲学には、存在論的なレベルにおいて「ファシズム」の危険性があるとされます。結局のところ、ドゥルーズは、多様性をすべて包括する「一者=全体」を言祝いでいるのではないか、ということですね。

それにしても、分割可能性という試煉において、「作品」は、どのように成り立ちうるのでしょうか。セザンヌの場合もそうですが、破砕した出来事たちを、ファシズムには行き着かないしかたで、どうやって共立させたらいいのか。一撃の崇高な出来事へと収斂せず、かといってカオスになることもなく、ディヴィデュアリティにおいて「弱い」ものとして個体化するような作品をどう考えることができるのか。

現代の、不透明=過透明な状況における個体化については、様々なアプローチがありうるでしょう──たとえば、「オタク・カルチャー」における「キャラ」のあり方、分割可能な「萌え要素」のアジャンスマン(agencement)、組み合わせが、しばしば注目されたりするわけです。とはいえ、キャラをめぐる欲望には、特定のセクシュアリティへの荷担があります。キャラのあり方を「ファイン・アート」の参考にするにしても、それを中立的な「フォーマリズム」へと昇華することはできない、というか、そんなことをするとしたら、あまりにも無邪気な暴力です。キャラをめぐるすべての問題系は、欲望のポリティクスのただなかにある。これは、あらためて強調しなければならないと思います。

池田
さっそくいろんな議論が波状的に出てきていますが(笑)、制作をしている方も多く来られているみたいなので、少しずつ確認して行きたいと思います。先ほど、ディヴィデュアル(dividual)という言葉が出ました。インディヴィデュアル(individual)というのは近代的な主体とか、個人といった意味です。「イン」っていうのはimpossibleみたいに、否定の意味をもっています。つまり、それ以上小さな単位に分割する(divide)ことのできないものとしての個人(in-dividual)ということですね。それに対して、分割可能なものとしてのディヴィデュアルという概念がある、と。ちなみにパウル・クレーなんかも、この言葉を用いて絵画の原理を説明したりしています。

■ ディヴィデュアル(分割可能)なもの、情報環境とキャラクター

池田
そもそもドゥルーズが、このタームについて語っているのは晩年のエッセイ「管理社会について」の中ですよね。そこでの議論というのは、近代においては人間というものが個的な主体性を持っていて、規律訓練型の社会はそういった個人を型にはめて、群れのように量的に統率する、と。それに対して管理社会あるいはポスト近代においては、人はディヴィデュアルなものとして、いわば分割可能なデータの束として扱われるだろう、と。こういったデータベースをもとにした管理もまた、大勢の人間を一挙にコントロールする量的な管理のようにイメージされがちですが、むしろデータの束としての人間に頻繁に働きかけ、そのコントロールの網の目が細かくなる、という意味では、近代型の量的な管理に対して、質的な管理の面を強調した方がいいんじゃないかとも思います。わかりやすい議論としては、それこそ、ぼくらは普段Suicaを使ったりしていますが、その履歴はデータベースの中に蓄積されていきます。たとえば行動の範囲や時間帯などから商品の広告が個別にあたえられ、僕らの行動が半ば自動的にコントロールされる、なんてことも実現可能でしょう。映画で言えば『マイノリティ・リポート』なんかでその辺の感覚は描かれています。アメリカ留学をしていた数年前、MITに所属していてステータスを示すカードを持っていましたが、そのステータスの程度によって、この場所には入れるとか、この時間帯は入れないとか、厳密に決まっていたりする。そういったように、個人がデータの束として分割されて、その行動が細やかにコントロールされる、といった文脈でディヴィデュアルという語は使われています。

さらに、さっき言われていたオタク・カルチャーとかの延長線上でディヴィデュアルという問題を考えるとすれば、YouTubeとかニコニコ動画とかを思い出せばいいと思うのですが、映像があって、その上にいろんなタグがくっついている。「踊ってみた」とか「初音ミク」とか「もっと評価されるべき」とか(笑)。映像にタグの束がくっついていて、タグを押すと関連する映像のほうに開かれていく。もはやネット空間においてはそもそも作品の単一性みたいなものが確保されることが極めて難しくて、メタデータ、つまりデータに関するデータが常に付与されているし、それを通じて別の作品の方へと繋がっている。そこで作品の単一性、単体性といったものがもはや解体されて、アニメとかゲームとかが二次創作とかMADみたいな形でどんどん派生的に展開されていく。そこでは作品は単一の枠組みを持たずに、様々なジェネレイティヴィティ(生成力)のなかに開かれていくんだ、と。それが、近代的な作品の概念とか、あるいは作家っていう概念も解体しうるんだっていう、そういうヴィジョンとして捉えられている部分がある。

しかし、そういう見方に対して千葉さんはもうちょっと違うアプローチを持っている。つまり、そうやって作品の単一性や作者の特権性みたいなものを解体しているように見えるのにも関わらず、それを支えているのは実はひとつのセクシュアリティに過ぎない、それこそホモソーシャルな場を成立させる単一のセクシュアリティに過ぎないのではないか、と。

千葉
そうですね。たいがいのオタク的表象は、いくぶんシニカルな態度をとるにしてもヘテロセクシュアリティを前提しているし、あるいは「腐女子」たちを喜ばせるホモセクシュアリティにしても、さまざまなコンプレクスを隠しつつ理想化されているわけです。

池田
それはさっき言ったようなバディウ的な多様性批判という問題ともつながっていると思うんですけれど、ポストモダンの議論でよく言われるのは、様々な価値基準が並んでいますよ、と。いまの現代美術とかに引き付けて考えると、ある人は政治的な主題があるのが素晴らしい、と言うし、ある人は社会にコミットしているのがすごい、って言うし、作品のモダニスティックな純粋還元主義がどうのとか、感性のピュアさがどうのとか言えたりもする。そういうふうに様々な価値基準が林立しているし、そういった複数の基準が可視化される、あるいは過透明化されていくなかで、にもかかわらず、そういう多様性を支えるような「いま、ここ」っていう場所が安全地帯として確保されてしまう。むしろその「いま、ここ」という場所を確保することによって、様々な歴史的な参照項や価値基準を相対化しうるという、ある種の隠蔽が起こりかねない。バディウ的な多様性主義の批判というのはそこに行き着くんじゃないかなと思います。そういう意味では、現代美術、あるいは絵画を考える上でもよくわかる問題設定でしょう。

もうちょっとネット関連の話を先にしておくと、東浩紀さんなんかが前提としている議論ではあるんですけれど、そもそもキャラクターの話をするときに、大塚英志という人が、キャラクターというものは記号でもあるし身体でもある、という言い方をしているんですね。キャラクターは基本的に萌え要素の組み合わせであるような分割可能な記号の組み合わせでできている。と同時に、キャラクターは身体性をも持っていて、「身体」というのは、死の問題、つまり交換不可能な一回性をもった死の問題とか、リアリスティックな問題と引き剥がしがたくあるようなものとして考えられている。ここでのキャラクターは、そういった分割可能性によってどんどん解体されてうる記号的な要素が、身体がはらむ重力において辛うじて束ねられている状態という感じでイメージすればいいと思うんですが、伊藤剛は、キャラクターの記号性と身体性という二つの側面を、それぞれ「キャラ」と「キャラクター」というふうに分けた方がいいのではないかと言っています。

東さん、濱野智史さんなんかの議論では、割と「キャラ」のほう、記号的にどんどん組み替え可能であるようなもの、あるいはそれを成立させるようなアーキテクチャの方向に行きますね。ネットの議論ではどうしてもそうなるし、それはそれとして面白いと思うのですが、しかし例えば美術であれば、そうは言っても、作品を作るというときには、ある「もの」に触れざるを得ないというか、物体的な抵抗なくして勝手に開かれていく、YouTubeとかニコニコ動画みたいなところで勝手に作品が解体されていくというようなことを、それでオッケーと言ってしまえるのかどうかというのは極めて微妙な問題。むしろ一方に記号的な「変更可能性」があるとすれば、他方で身体的な「変更不可能性」というようなものをどういうふうに考えることができるのかというのは、ひとつ、大きな問題なのかなという感じがする。

千葉
そうですよね。キャラが自由に浮遊する空間というものは「非歴史的」に思えるし、それが、コジェーヴ的な「歴史の終わり」とかね、そういう時代意識と結びつけられたりするわけですけど、そんなのは幻想ですよ。歴史なんて終わっていない。キャラクターというのは歴史的コンテクストのなかで構成されるわけで、そこには政治のダイナミクスがあるわけでしょう。キャラが純粋に浮遊する(かのような)空間を措定することそれ自体が、実のところ、一定の政治的なコミットメントなんですね。それは多くの場合、ヘテロセクシャルな欲望をベースにしているわけだしね。だからもし、いっそう真剣にディヴィデュアルなものを考えるとしたら、記号的なキャラの組み替え可能性というのを、担保された価値観の上でやるんじゃなくて、政治的に規定された身体、つまり「キャラクター」として根付いた身体それ自体にまで刃を切り込ませるようなことが必要なんじゃないかと思うのですね。

池田
キャラがどんどん分割可能で、それらが浮遊するような雑多な空間っていうのが開かれるのだけれども、ある意味ではそれはあまりにも容易に分割可能性に開かれてしまっているわけで、むしろその身体にこそ分割可能性の刃を向けなくちゃいけない、っていうのは非常に面白いと思うし、それが最初に挙げたベーコンの変形の問題にもつながってくるのかなという感じがするんですよね。さっき、ジョーカーの顔の話をしたけれど、そもそもドゥルーズのベーコン論によれば、ベーコンは「顔」じゃなくて「頭部」の作家なのだという。
 
千葉
そうですね。顔がない。動物になっちゃってるから。もっとも、「動物の顔」なるものがあるのか、というのは哲学の大問題ですが(笑)。

池田
それで、バットマンで言うと、89年に最初の実写版映画が作られているのだけれども、そのときジョーカーはジャック・ニコルソンが演じていて、それはちゃんと「顔」になっている。そもそも原作コミックによれば、ジョーカーの顔はメイクをしているのではなくて、漂白されて白くなっちゃっているという設定なんです。それをラディカルに読み替えて『ダーク・ナイト』ではメイクをしているってことになっているんだけれど、89年の実写版においては、ジャック・ニコルソンの顔というのは極めてちゃんと漂白された「顔」になっているというか、顔の上にきっちり白が張り付いているんですね。しかし、『ダーク・ナイト』においてはヒース・レジャーの顔は、もはや溶け出しているというか、若干、「頭部」化してきているというところがあってですね(笑)、そういう意味でもけっこうベーコン的なんですよね。


■ マゾヒズムの戦略、内在的反復

池田
それからもうひとつ、これもおそらくベーコン-ジョーカー的な問題と重なると思うのですが、僕と千葉さんが『批評の現在』(リンク:http://artstudium.org/2008/session/ )という別のシンポジウムでご一緒したときにサディズムとマゾヒズムの問題、とりわけマゾヒズムの戦略について考えられていて、それがすごく面白いなと思ったんですね。というのは、制作するということにおいてサディズム的な制作への幻想というのはもはや切り離し難くあって、例えば映画でいうと北野武の『アキレスと亀』で60年代のネオダダ系みたいな人たち、それこそギューちゃん(篠原有司男)みたいなモヒカン刈りの人とかが出てきて、その人たちが、制作だと言って、車の上にバケツをのせてその中にペンキを入れる。でかいフレームを壁の前に置いて、壁に車ごと突進してフレームを破壊し、その衝撃でキャンバスにペンキを塗る、と。ある種のアクション・ペインティングなわけですが、映画の中で車の運転手はその衝撃で死んでしまうわけです。

これはほとんどリテラルに「死の欲動」というか、サディズム型の制作の紋切り型を示している。そもそもフロイトの議論は、快原則、つまり心地よくなるということを目指して人間の心が働いているんだという原則があったのに対して、後期のフロイトは「死の欲動」、いわば快原則の向こう側、彼岸の部分に突進するヴィジョンを立てているのだけれども、それこそ『アキレスと亀』のアクション・ペインティングみたいな感じで死に突き抜けていくような、そういうものとして創作のある種の紋切り型が作られていると思うんです。

サディズム的なものというのは、それこそバタイユがそうだし、あるいはそのバタイユに影響された岡本太郎とかも日本で言えばその典型ですね。岡本が主張する対極主義というのは、全く異なるもの、たとえば聖的なものと俗的なものといった、全く異なる二極の引き裂かれのテンションにおいて何かヤバいものが立ち上がってくるんだ、と。それによって彼岸に突破することができるんだってことになるわけだけども、それが法の破壊とか、フレームの破壊のほうに向かうとすれば、マゾヒズムの戦略は、いわばその法を受け入れるんだ、というヴィジョンなわけですね。

千葉
そうですね。受け入れた上で変形するという戦略です。サディズムとマゾヒズムというものがドゥルーズにおいて、どう違っているのか。実のところ、2つの異なる差異の哲学があると言えます。ドゥルーズの哲学は、2つの極を持っているように見える。それが、サディズムの極とマゾヒズムの極です。一方では、事物の同一性をすべてぶっ壊してバラバラにした彼岸において差異のアナーキズムを開こうとするサディズム。だけどマゾヒズムは、そのような彼岸、つまり外部性へと向かわない。所与のものをいったん受け入れてしまった上で、それが持っている効果というものを「内在的」に変えてしまうんですね。マゾヒストは、ある脈絡において鞭打つという懲罰を、快楽へと変形してしまうわけですよ。

ところで、サディズムが求める外部性は、崇高さが到来する「傷口」に対応すると言えるでしょう。けれども、マゾヒズムが求める内在性において、問われるのは崇高さではないように思えます。一方で、ポスト構造主義がカントの美学を再評価するときには、崇高論がすごく注目されたわけですよ。というのはカントが、『純粋理性批判』で人間の有限な認識システムを記述した上で、『判断力批判』では、そのシステムを揺さぶるものとして、崇高なものというテーマを考えるに至ったわけだから。そこには、20世紀後半の「差異の哲学」を先取りするものがあったわけだけれど、むしろマゾヒズムのほうから言うと、やっぱりカントが元々関心を持っていた「美」が大事なんじゃないかと思ったりもするんですよ。

崇高とは、有限性のリミットとしての傷口、裂け目ですが、美というものは「構想力の自由な戯れ」であって、それは、諸々の感覚のエレメントが、可塑的なしかたでつながりあっていく状態ですね。川の流れが、あるフォルムにおいて揺らめきながら変容していくといった、そういうものを美しいと思ったりする。しばしば、崇高こそがラディカルな事態であって、美っていうのは保守的なんだと思われがちですが、でも実のところ、崇高はファシズムと共犯関係になりやすいし、むしろ美のほうに賭けるということに、別のしかたでのラディカリズムがあるのかなという気がするんですよね。ドゥルーズはそこで美とは言わないけれど、ただ、ドゥルーズ哲学が持っている「逆説的な保守性」っていうのかな、一見して保守的なんだけど、それが実のところ、とても撹乱的である、というね。美とマゾヒズムをつないでみると、そんなパラドクスに触れることになるんじゃないかな。

池田
確かにフレームを壊すというというようなことをすると、何となくラディカルなことをやった気になってしまう。まあ例えば美術系の人だと、芸大とかでね(笑)学部に入ってだいたい最初にやるのは、キャンバスをちょっといじってみたりだとか。要するに、作品なり何なりの土台、ファンデーションを操作すると、それこそファンダメンタルに、つまり根本的に何か変わったような感じがするといえばするのですね。しかしそれは結局のところ別のフレームのなかに取り込まれるに過ぎない。キャンバスを破壊しても、なんとなく「ああ、アクション・ペインティングね」とか「ネオダダ系ね」とか(笑)、別のフレームの枠の中に入っちゃうだけなんですよね。だからそもそもアヴァンギャルドがキャンバスみたいなものをどんどん破壊していくとか、あるいはインスタレーションに開いていくとか、アートプロジェクトみたいな形で人間関係のなかに開かれていくとか、そういうある種の「開かれへの幻想」みたいなものがあるとすれば、それはまた結局別のフレームのなかに回収されちゃうに過ぎないとも言える。そうやって開かれていくヴィジョンに対して、むしろフレームを受け入れる、ある種の「法」を受け入れるんだというような、逆説的なラディカリズムの可能性はあり得るのかなという気がする。

千葉
そうですね。でも注意深くやらないとただの保守になっちゃう(笑)。

池田
そうそう(笑)。 

千葉
フレームとの戦いをやめてみることが、創造的になりうるかどうかは、すごく難しいですよね。でもドゥルーズなんかを研究していると、そういうスタンスに、あらためて注目したくなるんです。デリダの場合、やっぱり脱構築という手法は、フレームにおける裂け目をどうするかということなんですね。でもドゥルーズの場合は、そうではないと思います。先日、ちょっと変わった人、ケニア出身でアメリカの大学にいるドゥルーズ研究者に会ったんですね。彼はドゥルーズと仏教の比較をしている人で、ドゥルーズの哲学がやろうとしていることのキーコンセプトは「即身成仏」なんじゃないかって言っていてね(笑)。なるほど、そうかもしれませんよ。即身でね、もう仏になってしまうっていうような肯定のしかたがもっている、ギリギリの保守性と革命性のバランスというかね(笑)、それはありますよね。とはいえ、あんまりこういう話をしすぎるとね、ちょっと閉じこもっちゃうからね。じゃあ、またもう一度、ディヴィデュアリティについて考えることにしましょう。

(つづく)